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なぜ港区高輪に高野山が? 江戸と空海をつなぐお寺「高野山 東京別院」の歴史

2026年5月19日

JR山手線「高輪ゲートウェイ駅」をはじめ、都営地下鉄「高輪台駅」「泉岳寺駅」などから徒歩10分。坂を上った先にあるのが、江戸時代に開創された高野山 東京別院です。

山門の正面にはご本殿でもある遍照殿が。 画像提供:高野山 東京別院

高野山 金剛峯寺と言えば、弘法大師空海により平安時代に開かれた仏教宗派のひとつ、高野山真言宗の総本山です。空海の伝説は日本各地に残されていますが、空海が江戸に足を踏み入れた歴史はないはず……。
そして、「東京別院」という響きも、一般的な寺院とは少し役割が異なる気がします。

気になるポイントばかりの高野山 東京別院。今回は、その歴史をはじめ、高野山 東京別院の執事・野村全快さんに教えていただきました!

東京で会えるのはここだけ?こうやくん。

江戸幕府と高野山をつなぐ「在番所」 徳川と高野山真言宗のつながりとは?

高野山 東京別院のはじまりは、明暦元(1655)年にさかのぼります。

「高野山 東京別院は、江戸時代に高野山の在番所としてはじまりました。開創時は浅草にあり、『高野山江戸在番所高野寺』という名称で、この高輪の地をいただいたのは元禄6(1693)年でございます。
『在番所』の役割は、高野山と江戸幕府をつなぐこと。修行の場でもありながら、例えば幕府との交渉や、通達いただいた情報を全国の高野山真言宗の寺院に伝達するような役割も担っていました」

「高野山学侶派の在番所」の記載も。斎藤長秋 編 ほか『江戸名所図会』七,博文館,1893.12. 国立国会図書館デジタルコレクション

徳川家といえば、菩提寺である増上寺(浄土宗)や増上寺と共に歴代将軍の霊廟がある寛永寺(天台宗)のイメージが強いですが、高野山真言宗ともつながりがあったのでしょうか?

▼徳川家康と増上寺についてはこちらの記事で紹介しています
増上寺が徳川家の菩提寺となった理由とは? 家康の信仰と大本山の役割を解説

「特別に高野山真言宗との関係が……という訳ではなかったかもしれませんが、幕府とのつながりはありました。和歌山県の高野山にも、立派な徳川家霊廟がございますしね」

和歌山県高野山にある徳川家霊廟。

「他にも、現在、両国にある大徳院さんというお寺も、家康さんと所縁のあるお寺です。もとは高野山にありましたが、家康さんが再建した際に弘法大師の『大』と徳川の『徳』をとって『大徳院』とし、貞享元(1684)年に江戸に移転されています」

徳川家康は、とても信心深い将軍。宗派ではなく、「仏教」という大きなくくりで厚く信仰していたとしても、なんら不思議はありません。

『徳川家康像』所蔵:京都大学総合博物館 The Kyoto University Museum, Kyoto University

「ただ、東京別院は浅草から移転して間もなく、元禄15(1702)年の大火により、ご本尊をはじめお堂も焼失してしまいました。再建に向けて寄進して下さったのは、5代将軍・綱吉さんの生母として知られる、桂昌院さんです」

桂昌院も仏教への帰依が深く、各地の寺院の再建などに尽力した逸話が残っています。

「細かい話になってしまいますが、真言宗には学侶方、行人方、聖方という3つの『方(学問や寺務などの役割)』があるのですが、幕府はそれぞれにご寄付をされていたようです。政治的な思惑もあると思いますが、上手なバランスでお付き合いをされていたと想像できますよね」

全国でも東京別院だけ! ご住職は、高野山金剛峯寺の最高位の住職が兼務

江戸時代は高野山の在番所でしたが、「高野山 東京別院」という現在の名称になったのは昭和2(1927)年と、実は結構最近です。

そして驚くことに、東京別院のご住職は、高野山金剛峯寺の「管長(最上位の住職)」が兼務されているとのこと!

金剛峯寺は、世界遺産にも登録されている高野山のほぼ中央に位置する高野山真言宗の総本山。

「高野山だと、管長猊下が住職を務めるような寺院は、金剛峯寺とこちらだけです。基本的に管長猊下は高野山にいらっしゃいますが、1月21日の『初大師の日(その年はじめての弘法大師の縁日)』などは、東京別院にいらっしゃいます。
現在の形になってからはまだ100年程度ですので、歴史の中で見ると新しいですけれども(笑)」

東京別院のご本尊・弘法大師空海。元禄15(1702)年の大火の後、高野山で開眼後、安置されました。 画像提供:高野山 東京別院

なぜ「東京別院」という名称になったのか伺うと、「昭和9(1934)年の弘法大師御入定1100年の御遠忌に向け、関東の布教拠点として整備されたという側面があります」と、野村さん。

「御入定」とは、「定=瞑想」に入ることを意味する、大師信仰特有の言葉です。

取材した日、山門のすぐ横の修行大師はマフラー姿。「皆さんが着せてくださるんです」と野村さん。

空海は承和2(835)年に高野山で入定したと伝えられていますが、1200年以上が過ぎた現在も高野山 奥之院の霊廟で瞑想を続けており、56億7000万年後、弥勒菩薩とともに私たちを救うためこの世に現れる、と言われています。

高野山 奥之院は戦国武将だけでなく大手企業の慰霊碑もあり、大勢が弥勒菩薩と弘法大師の再来を待っています。

ちなみに、高野山に徳川家霊廟があるのも、高野山 奥之院に戦国武将をはじめ多くの供養塔が存在するのも、弥勒菩薩と共に空海が再び現れるのをすぐ近くで待っていたいから、なんですよ!

「御遠忌は50年ごとに執り行っていますが、次は令和16(2034)年の御入定1200年の節目。東京別院でも、記念事業を執り行う予定です。細かいことはまだ決まってございませんが(笑)」

実はもう1つある!「東京別院だけ」の特徴とは?

東京別院という名称に変更したタイミングをはじめ、50年ごとに執り行われる御遠忌。実は御入定から1150年の御遠忌では、寺院からは想像もつかないプロジェクトも行われました。なんと、東京別院の地下に大規模な変電所「高輪変電所」が作られたのです。

「電力会社さんからお話をいただいたそうで、東京別院でも1150年の御遠忌における資金の一端にもなったと聞いています」

高輪エリアは地盤的にも地下深く掘ることが可能で、都心で変電所としてふさわしい広さの土地がなかったため、東京別院の地下に作られたそう。港区だけでなく、近隣の品川区・渋谷区・目黒区などに電力を送っています。

「私も聞いた話ではありますが、やはり順調に計画が進んだわけではないようです。実現するまでは長い時間がかかり、計画変更も何度もあったそうです。反対された方もいらっしゃったようですね」

都心とは思えないほど広い境内は、変電所にも最適だったのかもしれません。 画像提供:高野山 東京別院

高輪変電所が完成したのは、平成元(1989)年。地下に変電所があることで、寺院として何か特別なことなどはあるのでしょうか?

「寺院としては、特に地下に変電所がある影響はないですね。見学させていただいたことはありますが、大きな特徴と言えば、そのくらいです(笑)」

穏やかに教えてくださる野村さんでしたが、地下の変電所、というユニークな施設を見学できるの、うらやましいです!

多くの方とのご縁を結ぶ! 縁結びの御守を求める人も多い高輪結び大師

高野山 東京別院の本殿にあたる「遍照殿」にいらっしゃるご本尊は、弘法大師空海。実は東京別院は、「高輪結び大師」という名でも親しまれています。

これは10〜20年ほど前に、当時の主監(住職の代理役)が発案されたものだとか。「高輪(たかなわ)」という地名の由来の一つである「縄」を、人々の願いを繋ぐ「結び」と捉えてのご利益です。

かつては「高縄」と表現され、魔が入らないよう、江戸の入口を守る結界の役割もあった東京別院。さまざまなものを結び合わせる「縄」、そしてご本尊である弘法大師にも多彩なご縁を結んでいただける、という由来があります。

「縁結びの御守もあるので、求められる方もいらっしゃいます」と、野村さん。

ぜひ、良縁を祈願してみてはいかがでしょうか?

四国八十八ヶ所のお砂踏みに高野山からお呼びした神様も! 多くのご利益をいただこう

そして広い境内を誇る東京別院には、さまざまな見どころがあります。

山門をくぐってすぐ左手には、四国八十八ヶ所のお砂踏み。空海にゆかりのある八十八の札所(寺院)を巡礼する四国八十八ヶ所ですが、四国に向かうのが難しい人も同等のご利益をいただけるよう、各札所の砂が埋められており、それぞれお参りすることができます。

取材に伺った日も、八十八のお寺のご本尊に手を合わせながら、ていねいにお参りされている方がいらっしゃいました。

「88」は、煩悩の数とも言われているそうです。 画像提供:高野山 東京別院

また、その向かいに鎮座されているのは、高野山の守り神をお呼びしたという、明神社。高野山の守り神と一緒に、東京別院の氏神様でもある高輪神社の御祭神もいらっしゃいます。

ご本殿でもある遍照殿のご本尊は、弘法大師空海ですが、あわせてぜひご挨拶した置きたいのが、閻魔様。野村さん曰く「どちらも正確な記録は分からないが、元禄の火災の後にお迎えし、現在に至る」とのことです。

さらに、遍照殿の正面には不動堂も。
毎日11:00から護摩祈願が行われており、毎日焚かれる護摩の煤を身に受けたお不動様の姿は、日々の祈りの積み重ねを感じさせてくれます。不動堂の扉は開かれているので、時間が合えば拝見することも可能です。

また、東京別院は四国八十八ヶ所の江戸版、弘法大師ゆかりの寺院を巡る「御府内八十八ヶ所」の1番札所でもあります。御府内八十八ヶ所の起源に明確な記録は残っていないそうですが、宝暦5(1755)年頃には開創したと言われているそう。

野村さんも、「現在でもかなり多くの方が巡られていらっしゃいます」と言います。

さまざまな御朱印帳のほか、御府内八十八ヶ所集印帳も用意されています。

四国に行くのは少し大変ですが、港区の高野山 東京別院には四国八十八ヶ所のお砂踏をはじめ、御府内八十八ヶ所など、巡礼に触れることができる場所だったんですね。

仏教界のスーパースター・空海とは? 江戸に足を踏み入れずとも「大師信仰」が広まった理由は?

高野山の開祖は、歴史の授業でも必ず登場する、弘法大師空海。「弘法大師」は入定後に朝廷から与えられた大師号(高僧に対する敬称)ですが、古くから「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」という格言があるように、「お大師さま」「大師信仰」と言えば、弘法大師空海を指すことが一般的です。

でも、平安時代初期に四国に生まれた空海は、江戸に足を踏み入れたことがないはず(当時の江戸は自然だらけの田舎町でしたからね)。なぜ江戸時代になって、高野山の在番所のような形で創建されたのでしょうか?

「そうですね。お大師さまが江戸にいらしたことはないと思います。
それでも江戸で大師信仰が広まった理由のひとつに『高野聖』の存在があります。高野聖は高野山の僧侶で、日本各地を歩き、各地で布教されていました。なので、高野聖の方々の力もあったと思います。
もうひとつは、室町時代の初期、今の横浜のあたりに印融さんという僧がいらっしゃったのですが、『お大師さまの再来』とも言われるような方だったと言われています。印融さんが関東一円でお寺を建てられたり、復興されたり、教えを広める活躍をされたのも大きいと言われています」

広重『諸国六玉川 紀伊高野』,丸久,安政4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1309842 (参照 2026-05-11)

さまざまな伝説を持つスーパースター・空海本人が江戸に足を踏み入れずとも、その伝説を伝える人たちはたくさんいたため、江戸庶民にも大師信仰が広まったのかもしれません。

「ただ、現実的に考えると、お大師さまが残された業績が誇張されている、というのはあるようではございますが……」と野村さんはおっしゃいますが、それでも、令和の現在も空海の言葉をテーマにした書籍が発売されるなど、現代人にも広く影響を与え続けています。

「お大師さまは高野山や宗派を開かれたり、仏教界でも大変な思想家です。ただ、若い頃は官僚への道を歩まれており、『理想と現実』について大変理解されていらっしゃいました。ある意味、地に足が着いた考えを持たれており、そういった面が現代の方にフィットしたのもあると思います。
文章や書も堪能で、土木工事など、仏教以外の面で多くの社会活動もされていたので、庶民も身近に感じられたのも、大師信仰が広まった理由かもしれないですね」

高野山には「日本の三筆」でもある空海の筆跡を題字にした御朱印帳もあります。

理想論だけでは周囲に受け入れられないことを理解し、朝廷や古くからの仏教界の重鎮とも、上手に関係性を保っていたという空海のスタンスは、現代の社会人にも通ずるところがあるのかもしれません。

さまざまな言葉を残している弘法大師空海ですが、空海の言葉のひとつに「同行二人」という言葉があります。「ひとりで歩いていても、常にお大師さまが寄り添ってくれている」という意味です。

理想を求め、少し息苦しくなってしまったなら、高輪の坂をゆっくり上りながら高野山 東京別院を訪れてみるのはいかがでしょうか?

高野山 東京寺院では、真言密教の瞑想法・阿字観のほか、華道や書道、茶道、仏画など、さまざまな教室も開催しているので、新しい趣味を探してみるのも良いかもしれませんよ。

高野山 東京別院
住所:東京都港区高輪3丁目15-18
時間:6:00~17:00
アクセス:JR「高輪ゲートウェイ駅」、都営地下鉄「高輪台駅」「泉岳寺駅」、東京メトロ「白金台駅」「白金高和駅」よりそれぞれ徒歩10分

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