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港区歴史探索・地名のヒミツ 「港南」~変化を続ける先端地域~

2024年1月23日

あまり馴染みがない? 「港南」とは

現在港南といえば、品川駅の東側に広がる、大企業のビルが立ち並ぶ地区というイメージです。しかし、住所的に「港区港南」といった場合、品川駅の東はもちろん、高輪ゲートウェイ駅から品川ふ頭まで広がっていることをご存知でしょうか。

赤坂や青山などに比べれば新しい地名である「港南」ですが、紆余曲折もありながら、現在もダイナミックに変化しているこの地域について見てみましょう。

ペリー来航がきっかけ

江戸時代、ペリー来航によって危機感を抱いた幕府は、品川沖に海上砲台を設置すべく嘉永6(1853)年から7つの砲台の建造を始めました。そのうち、第一台場と第五台場が周囲とともに埋め立てられて、現在の品川ふ頭の一部となっています。

これらの台場を建造する際、高輪沖には工事用地・鉄道用地が造成され、これが港南地区の基礎になったとされています。

そして時代は移り明治となり、隅田川口改良工事に伴い、品川駅の東側一帯が埋め立てられていきました。
その後、埋め立ての進展に伴い、昭和8(1933)年に「高輪の浜」を意味する高浜町が設置されます。
現在では品川駅周辺エリアのため「品川」と呼んでしまいそうな地域ですが、戦前はどちらかというと高輪に関連付けられた地名だったというのは面白いところです。

現在も「高浜」の地名を残す、芝浦との境界にある高浜橋

さらに埋め立ては進展し、現在の港南三丁目・四丁目にあたる区域も誕生しましたが、これらは「海岸通」という住所になりました。まだ、品川ふ頭が存在しない時期のことです。

戦後しばらくは目立たない地域だった

戦後になると芝区と赤坂区・麻布区の合併による港区の誕生、品川ふ頭の完成によりほぼ現在同様の「港南」が誕生しました。「港区の南」という、かなり素直な命名です。

とはいえ昭和後半の時点で港南に存在していた主要施設といえば、芝浦水再生センター・東京都中央卸売市場食肉市場・東京水産大学(現:東京海洋大学)・自衛隊市ヶ谷駐屯地芝浦分屯地と、お世辞にも人々でにぎわうようなエリアではありませんでした。

しかし、平成に入ってからは状況が一変します。
品川駅の貨物ターミナルの廃止や、新幹線の運転所の移転によって、現在の品川インターシティ周辺に発生した広大なスペースが再開発されたことがきっかけでした。

平成15(2003)年に新幹線品川駅開業によって利便性が向上したこともあり、品川駅港南口側には、大企業のオフィスビルや商業施設が立ち並ぶようになります。
さらに、港南三丁目・四丁目地区でも、タワーマンション建設がはじまり、人口が急増していきます。

ちなみに、再開発以前から港南地区に工場(芝浦テクノロジーセンター)を構えていたソニーは、2004年にその土地を本社ビル(現:ソニーシティ)として再開発を開始する際、「新芝浦開発プロジェクト」と呼称していたのに対し、2003年キヤノンが本社を移転した際は、「キヤノンSタワー」(Sは品川とソリューションの意)と名乗るなど、この時期から港南口エリアも「品川」と呼ばれていくようになります。

まだまだダイナミックな動きがある港南

そんな港南地区ですが、2020年の高輪ゲートウェイ駅の完成によって、変化が次のフェイズへと入っています。

現在、高輪ゲートウェイ駅から駅の東側の港南地区に行く手だては、札の辻まで迂回するか品川駅を通るしかありませんが、今後品川シーズンテラス付近に接続する歩道が設置されることになっています。

ほぼ東西に分断されている泉岳寺・高輪ゲートウェイ西側と、港南地区ですが、北側の「第二東西連絡道路」とともに、歩行者・車ともに往来ができるようになり、現在より人の動きが活発になることが予想されます。

これに加えて、芝浦水再生センターの再整備がすすめられ、新幹線品川駅地下に完成するリニア中央新幹線の品川駅や、高輪ゲートウェイ西側の再開発と連動することによって、港南はエリア全体で大きく変化していきます。

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