山頂で宴会? 学習院長なのに部屋には隙間風!? 乃木神社の禰宜さんに聞く、乃木希典エピソード
港区赤坂にある乃木神社の御祭神は、日露戦争で功績を納めた乃木希典大将とその妻・静子夫人。乃木神社の歴史などはいままでの記事でご紹介しましたが、今回は、禰宜の飯島正弘さんに教えていただいた、乃木大将のエピソードをご紹介します!
乃木神社 禰宜・飯島正弘さん
昭和45年(1970)生まれ。千葉県出身。
三重県伊勢市にある、皇學館大学国史学科卒業後、平成6(1994)年3月より乃木神社に奉職し、平成29(2017)年4月より現職を担う。
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自分も律し、厳格な乃木大将。でも実は……
日露戦争などの功績、そして学習院長として昭和天皇の教育にあたるなど、明治天皇から厚い信頼を寄せられていた、乃木希典大将。一見、完璧と思われる乃木大将にも、人間味あふれるほっこりエピソードがたくさんあります。

乃木希典大将(出展:国立国会図書館デジタルアーカイブ)
「乃木さんが馬を大事にされていて、旧乃木邸の前に馬舎を舶来物のレンガで作られた、というお話はしましたが、馬に関するエピソードはたくさんあります」
と、飯島さんが少し口元をほころばせながら教えてくれた、乃木大将と馬のエピソード。

旧乃木邸・馬丁室。いまも「壽(す)号」と「璞(あらたま)号」という2頭の名前も残されています。
「当時、馬1頭ごとに、軍から飼育費が支払われていました。ある時、乃木さんは将軍仲間から“どうやら軍の中に、馬を飼っていないのに飼育費を受け取っているやつがいるらしい”という話を聞いたのです。もちろん乃木さんは、“それはけしからん! 泥棒と同じじゃないか!”と怒ります。そして後日、たまたまご自分の給与明細をパッと見ると、馬2頭分の飼育費が支払われている。実は乃木さん、最初は馬を2頭飼っていらっしゃったのですが、事情があって1頭になってしまっていたので、ご自分が余分に飼育費をもらっていることに気づかれた。
これはしくじったということで、気づいたタイミングで、余分にもらっていた飼育費を遡って返金されました。それだけでなく、馬の飼育費の話をした将軍にも、律儀に“実はこうこうこうで、大変申し訳ない”と報告していらっしゃいます」
返金するだけに留まらず、馬の飼育費の話をした将軍仲間にも懺悔するとは! 思わず「隠していても分からないでしょうにね」とつぶやくと、「正直におられたんですよ」との一言が。
でも、きっちり厳格なイメージの強い乃木大将の、ちょっと人間味あふれるお話を聞くと、一気に身近に感じます。
「新設された第11師団の初代師団長として、四国にも単身赴任で行かれているのですが、部下である兵と行動を共にする、というのは乃木さんのポリシー。たとえば、兵たちが作業していると、乃木さんも暑い中ずっと近くで立たれている。兵たちが寝そべって休憩していると、乃木さんも横たわる。その姿を見て、兵たちも“監視しているのではなく我々と同じ環境で共におられる”と感じていたようです」
そして、「学習院長の時も同じですよね」と続けます。
「乃木さんが寝泊りされていたのは、寄宿舎。立派な官舎もあったのですが、生徒寮の端の部屋、北風が入ってくるような部屋で寝起きをされていました。いまでも『学習院乃木館』として残っています。なかなかできない事ですよね」と、飯島さん。
乃木大将が学習院長を務めていたのは、明治40(1907)年から大正元(1912)年までの5年半。ちなみに院長としての官舎、使わなかったのかしら? と思っていたら、「昼間はちゃんとそこで仕事をされていたようです」とのことでした。
山頂の宴会や“妻返しの松”など、四国でのエピソードもたくさん!
「でもね、几帳面でルールには厳しい方ですが、四角四面というわけではないんです」と飯島さん。
「四国に赴任されていた頃、正月早々、部下たちに、訓練という名目で“山に登るぞ”とおっしゃった。みんな、なんで正月の寒い時期にキツイ山に登らなきゃいけないんだ……と言いながら登りますが、もちろん、乃木師団長もご一緒です。で、ようやく山頂に着いたら、なんと宴会の準備がしてある。
乃木さんが“ご苦労! 遠慮なくやってくれ!”と、みんなと山頂でどんちゃん騒ぎをした、という話もありますよ」
なんだかちょっと意外! でも、こういったお人柄だからこそ、明治天皇をはじめ、一般の人たちからも尊敬されるのかもしれません。
そして四国には、乃木大将の厳しい一面を伝える、もう一つのエピソードも。
東京から香川県まで静子夫人が訪れた際、奥様がいらしていることを知りながらもお会いすることを拒否されたため、静子夫人は大きな松の木の下で立ったままお待ちしていた、というお話。想像するに、ほかの兵たちも家族に会わず日本を守る戦いに備えているなか、自分だけ夫人にお会いするわけにはいかない、ということだったのだと思いますが……。
「香川県の金倉寺にある、“妻返しの松”ですね。ご住職がとりなして、後日ちゃんと静子夫人とお会いしていますよ(笑)。相談事があって、手紙よりお会いしたほうが良いとのことで、香川まで向かわれたようですね」
奥様、ちゃんとお会いできていたようで、ほっとしました!
実は新しい物も柔軟に取り入れる一面も!
「乃木さんは新しい物もお好きでね。たとえば、スキーを軍に取り入れよう、とおっしゃったのも乃木さん。雪中行軍もあるし、取り入れるのもいいだろう、と。だから、実はスキーの協会の発表会などに呼ばれることもあったようですね。
それに、蓄音機が出始めた頃、おもしろそうだ、とご自分が先頭に立って声を録音されたり。“私は乃木希典であります”って」
聞いてみたいですね! と言うと、「音源は残っていますよ。確か、レコードになっていたはずです。うちにもありますが、原盤なので再生するのはちょっと……」とのこと。確かに、そんな貴重な原盤を再生するなんて、できないですよね。
日本のみならず各国で報道された、乃木大将の殉死
乃木大将で避けて通れないのは、明治天皇の大喪の儀で出棺に合わせ、静子夫人とともに殉死された話です。

乃木希典大将と静子夫人(画像提供:乃木神社)
「“最後の武士”と言われたりもしますが、やっぱり明治の世になって、というのもあり、衝撃的だったでしょうね。だから、日本だけでなく、世界中でニュースになりました。ニューヨーク・タイムズは、自刃された次の日の朝刊で1・2面を使って報道している」

宝物殿に展示してある、実際のニューヨーク・タイムズ。
当時はまだ極東の新興国でしかなかった日本の事件を、アメリカの新聞の1・2面で報道するのは、異例のことのような気がします。
「日露戦争の功績もあって、乃木さんは海外でも高く評価されていましたからね。日露戦争で勝利したとはいえ、旅順で戦ったロシアのステッセル将軍が死刑宣告を受けたことに対して、減刑の働きかけをしたり、日本以外からの評価も高かった。イギリスのジョージ5世の戴冠式にも行かれていますが、ヨーロッパ各地で歓待を受けています。
なので、乃木さんが亡くなったあと、各国から追悼の品がたくさん届きました」
そして、「実はその中に……」と飯島さんが続けます。
「実は追悼の品の中に、ロシアからひとつの花輪が送られてきたんです。“モスクワのいち僧侶より”と書かれていたのですが、これがステッセル将軍なのではないか、という話があります。ご本人の名前は出せないが、乃木さんを追悼したかったのではないだろうか、と」
乃木大将に次げ! 少年・少女剣士たちが集う乃木神社
乃木神社では、剣道やボーイスカウトの活動もしています。これは、どちらも乃木大将に所縁があります。
剣道は、学習院時代に乃木院長自らが生徒に稽古をつけたなどのエピソードが残っており、先述したジョージ5世の戴冠式でイギリスに訪れた際、ボーイスカウトの創始者ロバート・ベーデン=パウエル卿と出会い、その活動を日本に紹介されたのも乃木大将なのです。

社務所の上に立派な道場もあります(画像提供:乃木神社)
「剣道教室を始めたのは、昭和50年代の後半です。地元の子どもたちが多いですが、私立の小学校に通っている子も多いので、ご近所の友達付き合いには貢献できているかもしれませんね」
ボーイスカウトは週末、剣道は週に2回稽古があるそう。夕方、袴を来たキッズが剣道の防具を持って歩く姿、最近見なくなったなぁ……なんてしみじみしていると、なんと驚きのお言葉が。
「ちょっと前は、袴に下駄で剣道教室に来る子もいてね。六本木方面から歩いてくるものだから、外国人旅行者の方たちが偶然見かけると、写真に収めたりしていましたよ(笑)」
袴に下駄で六本木を歩くキッズ剣士、想像しただけで顔がほころびます!

剣道教室、入門してみては?
「たとえば、剣道教室では礼儀作法の話をします。神社では鳥居で一礼しなさい、などですね。そのため、朝、通学途中でも剣道教室の子たちは鳥居の前で一礼して行く。そうすると、一緒に通学しているお友達も一緒になって一礼する。今度は、それを見ていた大人が、なんだ? と思うんでしょうね。神社だと気づいて一礼する。
子どもに教えられる部分がある、というか、自然とできるようになるのはいいことだな、と思います」
もしかしたら乃木さんは恐縮しているかも? あわせて参拝したい正松神社
最後に、飯島さんに境内でお好きな景色や、必見ポイントを教えていただきました。
「冬の朝はいいですね。鳥の声も聞こえて、ピンと張った空気に背筋が伸びます。
お屋敷(旧乃木邸)も見ていただきたい、と言いたいところなんですが、現在管理されているのは港区なのです。理由は、乃木さんの遺言に従って、旧乃木邸は港区に寄付されたから。
なので私としては、ご本殿の右奥にある『正松神社』ですね」

ご本殿の向かって右側。正松神社も、しっかりお参りしましょう。
そう、乃木神社には、ご本殿の右奥に「正松神社」というお社があるのです。
「実は正松神社の御社殿は、戦争で焼けてしまった乃木神社の仮本殿だったもの。昭和23(1948)年に造られ、昭和37(1962)年に乃木神社の御本殿が再建される間、仮本殿になっていました。だから、家紋などもちゃんと入っている、由緒ある御社殿です。
現在は、乃木さんの学問の先生であった玉木文之進正韞(たまき・ぶんのしんまさかぬ)先生と吉田松陰先生の二柱をお祀りしています」
玉木文之進正韞は、吉田松陰の叔父にあたる武士であり教育者です。
「乃木さんは武士の家の生まれでしたが、小さい頃から非常に学問がお好きだった。ある時お父様に“学問で身を立てたい”と話したら、“だったら百姓になれ!”と言われてしまい、なんと家出をして玉木先生に教えを請いに行かれたのです。でも、玉木先生にも“そんな甘っちょろい事を言うなら帰れ!”と言われてしまう(笑)。見かねた玉木先生の奥様が、昼間は畑仕事を手伝わせ、夜に読み書きを教えてくれる、ということで住み込みを許され、その後、玉木先生から教えを受けられるようになったんですよ」
乃木大将が吉田松陰さんと直接お会いしたことはないそうですが、とても尊敬されていて、世田谷区にある松陰神社にも石灯籠を奉納されているそう。
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「山口県萩市の松陰神社さんに御分祀いただいて、玉木先生と共に松陰先生もお祀りしています」
ということは、正松神社は、学問の神様なのでしょうか?
「そうです。乃木さんの先生をお祀りしていますからね。
でも、乃木さんとしては、はばかりがあるかもしれないですね。尊敬されている先生方よりご立派なお社にお祀りしているので、“けしからん!”と思っていらっしゃるかもしれないです(笑)」
教えていただいたお話はどれも興味深く、今でも多くの方が乃木大将と静子夫人にあやかりたい、と参拝者が途切れない理由を、その歴史や背景から理解することができました。そして、御祭神を身近に感じられるさまざまなエピソードも。
現在はコロナ禍で休止してしまった夏祭りなども復活し、「神社は地域の結び目とも言われますが、地域の方々とのつながりを、お祭りなどを介して強めていきたい」と、飯島さんもおっしゃいます。
自分に喝を入れたい、シャキッとしたいな、と感じたら、乃木希典大将にご挨拶に行かれるのはいかがでしょうか。
【乃木神社】
住所:東京都港区赤坂8-11-27
時間:6:00~17:00/授与品受付:9:00~17:00/宝物殿拝観:9:00~17:00
アクセス:東京メトロ千代田線「乃木坂駅」より徒歩すぐ