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港区の公園「青山公園」

2023年8月17日

南北に分断された公園の謎を解き明かせ

青山一丁目の駅から六本木方面へ向かう道沿いには、西側に広大な青山霊園が広がります。この青山霊園の北東と南東の端に、2つの公園があり、この近辺で働くサラリーマンのサボり……休憩スポットとなっています。

実は、この公園。いずれも「青山公園」という名称で、登記上は同じ公園扱いになっていることをご存じでしょうか。

北と南、それぞれ異なる成立理由

青山公園の公式サイトを覗いてみると、2か所の公園は「青山公園(北地区)」と「青山公園(南地区)」という名前で、呼び分けているようです。が、両公園の間は直線にしておよそ500mは離れており、恐らく地元の人も別の公園と認識しているのではないでしょうか。なぜ、これだけ離れた公園をひとつの公園として扱っているのか? 別々の名前をつけてふたつの公園にしてはいけなかったのか?

お昼はサラリーマンがくつろいでいる青山公園(北地区)のベンチ

南地区の公園は国立新美術館に隣接しておりモダンな雰囲気が感じられる

青山公園サービスセンターの萬年さんに、その理由を聞いてみました。

「すべては、第二次世界大戦終戦直後にまで遡ります。戦争が終わり、満州や南方の植民地から多くの日本人が返ってきました。引揚者といいます。彼らは帰ってきたものの住む家も財産もありません。そこで日本政府は、彼らのための仮住まいとなる住宅を整備して渡しました。現在の青山公園(北地区)には、そんな引揚者の仮設住宅が建っていたんです。一方、青山公園(南地区)のあたりは陸軍の射撃場跡地が広がっていましたが、アメリカ軍に接収されていました。戦後復興がある程度進むと、引揚者の方々も新たな生活基盤が整い始め、仮設住宅が必要でなくなりましたし、都心の進駐軍基地も不要となりました。そこで不要になった施設を撤去し、代わりに都民のための公園を整備しようという計画が立ち上がりました。港区で公園にするのに適した空き地として選定されたのが、先述の引揚者住宅跡地と、陸軍射撃場跡地だったわけです。昭和33(1958)年にまず北地区から。次いで南地区が公園へと整備されていきました」

なるほど。元々異なる施設の跡地を公園にしたので、これだけ離れているということなのですね。となると、ますます公園をふたつに分けた方が良かったのではないでしょうか? 

この我々の素朴な疑問に萬年さんは、

「断言はできないのですが」

と前置きをした上で、答えて下さいました。

おそらく敷地の広さが関係しているかと思います。当公園は、都が整備した都立公園です。都として管理する公園は一般的に、区立公園より大きなところが多いのですが、当公園は南北合わせても、都立公園としては下から3番目の広さしかないんです。開園当時は今よりさらに狭かった。おそらく北地区、南地区まとめて一つとすることで、都が管理する広さの公園としての体裁を保ったのではないかなと考えております。北地区の公園はそれなりに広く見えますが、実は区立の青葉公園という公園と隣接させることで、広く見せているんです」

え?今より狭かったんですか?

「そうなんです。都の方で少しずつ周辺の土地を買収していって徐々に広げていったんです。ついでにいうなら、2023年2月1日に、六本木にある米軍のヘリポート周辺の土地の一部を返還してもらい南地区を拡張したばかりです。六本木にはまだ返還されていない米軍の接収地がありますので、さらに本公園は成長していきますよ」

青山公園が南北に別れている理由を調査してみたところ、思いのほか深い歴史と、まだこの公園が未完成であるという衝撃の事実に突き当たってしまいました。と、GoogleMapを見ているとさらに衝撃の事実を発見してしまいました。

青山墓地の北西側に、港区立の「青山公園」もある!?

ここにも青山公園が……

青山周辺の住民が、「青山公園好きすぎ問題」はもう少し続きそうです。

青山公園
住所:東京都港区六本木七丁目、南青山一丁目
アクセス:東京メトロ千代田線乃木坂駅より徒歩5分、東京メトロ日比谷線六本木駅より徒歩5分、東京メトロ銀座線・半蔵門線、都営地下鉄大江戸線青山一丁目駅より徒歩5分

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