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青山通りのなだらかな道は先人の知恵で生まれた

2023年8月10日

青山国道246号線のうち、千代田区永田町の三宅坂交差点から渋谷区渋谷の明治通りと交差する地点までの、約5kmの区間は「青山通り」と呼ばれています。名称の由来はこの通りに沿うようにして青山家の宗家、分家の屋敷が連なっていたからです。この通りを渋谷駅から歩いてみると、渋谷駅をもっとも低地として、宮益坂を上っていく比較的急な坂道となっていることに気がつくはずです。

青山通りは急坂があるのに都内有数の平坦な道!

宮益坂を登り、東京メトロ銀座線外苑前駅を過ぎると、青山通りはそれまでの急坂が嘘のように平坦な道となります。上りがあれだけ急だったのだから、下り坂も沢山ありそうなものなのに、です。

宮益坂を登ると途端に平坦になる青山通り

しばらく平坦な片側3車線道路が続く

この起伏がほとんどない感じは、ほぼ青山通りと同じ始点終点をもつ六本木通りと比較するとより顕著です。

起伏の激しい六本木通り(1)

起伏の激しい六本木通り(2)

ほんの数百メートル南を走る六本木通りは、登ったり下ったりの高低差が非常に激しい道ということで知られています。この差は、感覚的なものではなく、地形図の等高線ではっきり確認できます。

青山通りのような急坂から始まり、残りは平坦という道は、歴史のある道の特徴です。実際、六本木通りは1964(昭和39)年の東京オリンピックに向けて整備されていった新しい道です。

青山通りは、谷底である渋谷から一気に台地へ駆け上がり、その後は台地の最高地点である尾根を歩き続けるという形になっています。いわゆる尾根筋に沿うように道ができているのは、先人の知恵です。尾根につくる道は低地よりも水はけがよいため、街道のメンテナンス費用が少なく済みます。大雨が降った後に、たまった水をかきださずとも自然と低地に流れていくからです。

また、高台で見通しがよいため、獣や山賊に襲われるリスクもありません。街灯などもない時代、谷底よりも日照時間が長い尾根筋伝いに歩くことは旅程の短縮にもつながりました。

最初の上りこそ大変ですが、登ってしまえば、あとは一定の高さを歩けて疲れにくいというのも尾根筋の利点です。最初から歩きやすい道を選ぶと山岳国である日本では、どうしても遠回りをして余計な体力が奪われます。そこで、スタートはつらくとも、全体でみると短い距離で、楽に歩ける尾根沿いに自然発生的に重要な街道が生まれました。

青山通りは江戸幕府誕生以前から存在?

青山通りの歴史は、奈良時代まで遡れます。この時代の史料によると、青山通りを含む国道246号線は「足柄道」「足柄路」と呼ばれる東国と畿内を結ぶ主要道でした。鎌倉時代に、東国の中心地が鎌倉へ移ったことで、箱根の山を越える「湯坂道(現在の東海道)」の方が利用客は増えましたが、東海道が使えなくなった場合の脇道として、多くの人々が利用し続けました。

やがて、「足柄道」の起点は室町時代に作られた江戸城の西門・赤坂門とされました。青山通りを登ってきたあと、尾根を下る坂道がみあたらない理由ですが、通りの起点である江戸城が、武蔵野台地の縁にあたるからです。かつて、江戸城(現在の皇居)の北側と東側、千代田や日比谷の一帯は日比谷入江と呼ばれる海でした。つまり、江戸城は海にせり出した台地の端、断崖絶壁に建つ城だったのです。

この江戸城に入城し改修をはじめた徳川家康は、足柄道も改めて整備。「矢倉沢往還」という名前へ改めました。

青山通り(矢倉沢往還)は、宮益坂さえ上ってしまえば、断崖絶壁の江戸城まで障害なく歩いていける数少ない道でした。そこで、家康はこの通り沿いに、親藩や譜代大名、同心や与力といった信頼のおける家臣たちの屋敷を配置し防備に当たらせることにしました。青山家もこうした役目を負った家のひとつでした。

現在の東京メトロ表参道駅から青山通り沿いに北東にすすんだ一帯(現在の南青山3丁目から5丁目にかけて)は、かつて青山百人町という町名でした。

『江戸切絵図』に残る”百人町”の文字

ここには、青山家に仕える鉄砲百人組の家が配置されました。彼らの任務は、万が一宮益坂を上って江戸城へ攻め込もうとする敵が現れた場合、坂の中腹から敵を狙い撃って撃退することでした。仮にこの百人組を突破できたとしても、坂を上りきった先には青山家をはじめとする譜代大名の屋敷と本隊が控えていました。

観光ルートとして庶民に愛された青山通り

家康により再整備され姿をかえた「矢倉沢往還」ですが、江戸の庶民はその名前で呼ぶことはあまりなく「厚木街道」または、「大山道」と呼んでいました。

現在の神奈川県の中心、伊勢原市と厚木市、秦野市にまたがる大山は、美しい山体から山岳信仰の対象でした。矢倉沢往還のルート上にはこの厚木の大山があり、そこへ向かうための道として認識されていたのです。

大山阿夫利神社

江戸の町には、大山を信仰する信者が大勢いました。江戸時代は、幕府による統制で自由に旅が許されない時代でしたが、寺社詣に関しては、比較的しばりがゆるく、関所の通行が許可されています。そこで、寺社詣にかこつけて旅行をすることが、庶民の娯楽として浸透しました。江戸から程よい距離にある、「大山」や、同じく神奈川の「江の島」は、行きと帰りで二か所の観光スポットを見て回れる人気のルートでした。

ちなみにいくらゆるかったとはいえ、正直に「旅行に行きます」と通行手形の申請を行っても、発行されるわけがありません。そこで江戸の庶民たちは、町内で集まり、「講」と呼ばれる特定の寺社の信者団体を作りました。講は、毎月小額のお金を会員から集め、それを積立てます。このお金が一定額溜まる頃(大体年に一回)、皆を代表して数名に信仰する寺社に参拝してもらうという形で、旅の申請を行いました(代参講)。有名なものだと、お伊勢参りや金毘羅参りもこの代参講に当たります。

江戸時代のお伊勢参りの様子

港区の坂は武蔵野台地から下るものが中心!

港区全体には名前が付いた坂が86もあるとされています。ですが、そのほとんどが青山街道沿いには存在しません。逆に、この青山通りを少し外れるようにそれると、台地から下る形で生じた急な坂道に名前がつけられているんです。

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