
【泉岳寺とは?】赤穂義士墓地だけじゃない! 忠臣蔵と学問所の歴史を徹底解説
東京23区で最も寺院の多い港区。誰もが知る有名な寺院も多く、そのひとつが高輪の曹洞宗 萬松山 泉岳寺です。
泉岳寺は、東京都港区高輪にある曹洞宗の寺院。赤穂義士の墓所としてだけでなく、駒澤大学のルーツとも言える学問所としての歴史や、徳川将軍家との繋がりも持っています。
今回は、忠臣蔵についてはもちろん、知られざる歴史や、2026年3月に完全オープンする高輪ゲートウェイシティから泉岳寺を楽しむ方法まで、直歳(しっすい)の牟田賢明さんに教えていただきました。
徳川将軍家との深い縁。3代将軍家光が「五大名」に命じた泉岳寺再建の舞台裏
泉岳寺は、慶長17(1612)年に、今川義元の孫である門庵宗関和尚が創建しました。

実は、江戸幕府を開き信仰心の高かった徳川家康も、泉岳寺の創建に大きく関係しています。家康は、幼いころ今川義元のもとに身を寄せており、義元を弔うための寺院として創建されたのです。
「もともと泉岳寺は、江戸城の近く『外桜田』と言われる場所にありました。『外桜田』が現在のどのあたりを指しているのかははっきり分かっていないのですが、警視庁周辺と言われています。
しかし、寛永18(1641)年に起きた寛永の大火で焼失してしまい、高輪に移ったという歴史があります」
寛永の大火では、江戸の大半が焼失。当時の防火体制の見直しが行われるきっかけとなった、大火事です。
「高輪の地に移ったのは、3代将軍家光公の時代。実は再建されたいきさつについては、いくつかの説があるんです」

松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[3],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2563382 (参照 2026-03-02)
「ひとつは、当時の将軍・家光公が鷹狩にいらした際、一緒に来ていた家来の大名に『高輪の地は場所もいいので、ここに泉岳寺を再建したい』とおっしゃった、という説。
もうひとつは、泉岳寺の再建場所はすでに高輪の地と決まっていて、家光公が鷹狩の際に再建状況が芳しくない様子を見て『早急に再建を進めるように』とおっしゃった、という説です」
当時の高輪は、徳川将軍が鷹狩を行う「鷹場」として管理されていたエリア。
たまたま思いついたのか、それとも遅々として進まない再建にもどかしさを覚え指示したのか? どちらにせよ、家康が想いを寄せていた泉岳寺の再建に、家光なりに貢献したいという想いの表れかもしれません(さすが、おじいちゃん大好き将軍!)。
「泉岳寺の再建を、家光公は『五大名(5人の大名)』に命じています。五大名とは、毛利氏、浅野氏、朽木氏、丹羽氏、水谷氏です。実は三大名だったんじゃないか? と言われることもありますが、一般的には五大名に命じた、となっていますね」
駒澤大学のルーツでもある? 江戸時代から令和に続く「学問所(学林)」
曹洞宗の寺院でもある泉岳寺のご本山は、福井県にある永平寺と、神奈川県横浜市の総持寺。
泉岳寺は、「曹洞宗江戸三ヶ寺」および「三学寮」として、江戸で多くの僧が修行する場所という役割もありました。
「学林(曹洞宗の僧侶養成学校)としての役割をいつから持っていたのか、正確な年代は明確には分かりません。
江戸時代、仏教に関するさまざまな情報は、中国から長崎に伝来していました。たとえば、今では誰もが知る木魚などです。ほかにも、読経時に鐘を鳴らす、なども中国から伝わったこと。
そうすると、最先端の仏教を学ぶため長崎に赴く僧がいて、その教えをまた別の僧に伝える。徐々に知識を持つ僧が集まり、広く伝えるための学林が発展します。同じような状況が泉岳寺にもあったんでしょうね」
そして学林としての役割は、令和の現在になっても変わらず引き継がれているとのこと。
「江戸時代は200名ほどの学生がいたそうですが、実は現在も10名弱の僧が泉岳寺で修行しています。ここから駒澤大学に通っていますよ(笑)」
この投稿をInstagramで見る
実は駒澤大学の前身は、泉岳寺をはじめとする「三学寮」。駒澤大学はもともと、曹洞宗の学林だったんですよ。
赤穂事件の原因「松の廊下事件」を再考。キーワードは「武士の面子」
徳川家の庇護を受け、学林としての役割を果たしていた泉岳寺。しかしある事件をきっかけに、徳川家との関係に終止符が打たれることになります。
そう、「赤穂事件」のきっかけでもあり、「忠臣蔵」でも必ず描かれる「松の廊下事件」です。

松之廊下刃傷の場を描いた錦絵(歌川国貞「忠雄義臣録」 )
まずは、「赤穂事件」及び「忠臣蔵」の基本的なストーリーをご紹介。
江戸中期の元禄14(1701)年。旧暦3月14日に、朝廷からの使者を接待中の江戸城・松の廊下で、赤穂藩主・浅野長矩(浅野内匠頭)が自身より身分の高い吉良義央(吉良上野介)に切りかかる事件が発生した。理由は、今で言う吉良からの行き過ぎたハラスメント。
しかし公式な場での刃傷事件に5代将軍・徳川綱吉は激怒。
喧嘩両成敗が原則の当時だが、浅野には即日の切腹、かつ領土であった赤穂藩も取り潰しの命が下される。一方、吉良には何のお咎めもなかった。
浅野ひとりに重すぎる罰が与えられたことに、赤穂藩の家臣たちは猛反発。大石良雄(大石内蔵助)を中心にした47人の義士たちは、元禄15(1702)年の旧暦12月14日、主君の仇を討つため、吉良邸に討ち入り、吉良の首を獲った。
吉良討伐後、義士たちは吉良邸(現在の両国)から約10㎞離れた泉岳寺まで歩き、主君の墓前に仇討ちを成し遂げたことを報告。
その後、幕府の命で全員が切腹し、今も浅野と同じ泉岳寺に眠っている。
「実は今でも、ごくたまに『浅野内匠頭が事件を起こさなければ、吉良上野介だけでなく多くの義士も命を落とさずに済んだ。赤穂藩も安泰だったはずなのに、馬鹿なことをしたものだ』とおっしゃる方もいらっしゃいます。
300年も前のことですから想像するのが難しいですが、事の顛末を知っている現在の私たちと江戸当時の価値観は全く違う、と考える必要もあるかな、と思いますね」
確かに江戸時代は、どんな時でも武士の誇りや品位を保つ、「武士は食わねど高楊枝」の時代。武士にとって、面子は命よりも重いものでした。
もし、江戸城の公的な場面で面子を傷つけられることを言われたとしたら……。
「将軍や朝廷の使者のみならず、多くの大名、旗本らが正装して江戸城に集まっている。仮にそんな場で嫌がらせを受け、長矩さんがじっと耐えていたとしたら、『赤穂藩の殿様は腰抜けだ』と言われることが目に見えている。長矩さんだけでなく、赤穂藩の武士や多くの人たちにまで被害が及んでしまいます」
「本当に今の価値観で考えるのは難しいですが、当時の武士にとって、面子を傷つけられるのは刀で切りかかられるのと同じことですから」と、牟田さん。

泉岳寺境内内にある「義士記念館」には当時の貴重な史料を展示
この「松の廊下事件」でお家断絶となった赤穂藩の浅野家。
すでにご紹介したように、泉岳寺が高輪の地に再建された際、家光に再建を命じられた「五大名」のひとつが浅野家です。さらに浅野家は、再建をきっかけに泉岳寺を菩提寺としています。
徳川家の庇護により再建された泉岳寺ですが、江戸城での事件を機に袂を分かつことになる。なんともやるせない事実です。
「赤穂藩の浅野家はお取り潰しになってしまいましたが、浅野家の分家の方々が、泉岳寺を守ってくださいました。長矩さんの奥様・瑤泉院(正室・阿久里が仏門に入った後の名)さんのお墓を立ててくださったのも、浅野家の分家の方です」
赤穂四十七士が貫いた「義」とは? 主君・浅野内匠頭の墓前で伝えた仇討ち
理不尽な状況下においても、主君のために命を懸けて仇討ちを行う忠義や、武士の名誉や自己犠牲の精神・美学など、普遍的な人間ドラマを描く「忠臣蔵」(敵役の吉良を強欲に誇張することで、勧善懲悪のカタルシスもプラス)。
江戸時代の人形浄瑠璃や歌舞伎をはじめ、300年以上にわたって数えきれないほど描かれており、令和の今もなお、新たな作品が生み出されています。
「命を差し出してでも主君の名誉を守るという決断こそが、赤穂義士の『義』でした。義を通したお侍さん=義士です。
そんな彼らの姿から、自分の『義』を改めて感じられるのが、『忠臣蔵』なんだと思います」
浅野の辞世の句は、自身に下された不条理な判決への無念さを感じさせます。
「風さそう 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」
(風で散ってゆく花よりも、私はこの世に名残惜しい気持ちがある。この気持ちをどうしたらよいのだろうか)
この主君の無念を晴らす『義』を成し遂げたのが、赤穂義士。

山門のすぐ横に立つ、大石内蔵助の像
「私たちも、たとえば私はお坊さんですが、警察官、先生、学生など、さまざまな方がいらっしゃいます。それぞれの立場における、『正しい行い』を実行するのが難しい場合もありますよね。でも心の中では『本当はこうするべきだ』、と感じていることもあると思います。すべてに正しくいるのは、難しいことです。
『義』を実直に貫く『忠臣蔵』は、道理や条理、正しいことを考えるきっかけになるのではないでしょうか」
「今の時代、命を懸けて討ち入りすることはないですけどね(笑)」と、牟田さん。

義士記念館では、討ち入りの陣羽織や47人の義士名がプリントされたTシャツも人気とか
「実際に討ち入りを果たしたのは47人の義士ですが、赤穂藩には300名ほどの家臣がいました。47人の義士に注目がいきがちですが、さまざまな事情で参加できなかった家臣も多くいたはず。事実、討ち入りに参加できず、先に切腹された方もいます。
討ち入りに参加していないから『義』がないわけではない、というのはお伝えしたいですね」

浅野内匠頭の墓前に供える前、吉良上野介の首を洗ったと言われている「首洗い井戸」
確かに、映画やドラマで描かれるのは、リーダーである大石内蔵助率いる四十七士。しかし、描かれていない浅野長矩の無念を悔やむ家臣の気持ちは、討ち入りした義士たちと変わりないはず。
さまざまな名優が継いでいる「忠臣蔵」。多くの作品で、浅野内匠頭の墓前で仇討ち成功の報告を読み上げるシーンが描かれます。主君への忠義を果たした大石らの何とも表現しがたい表情が胸を打つのは、命を懸けて義を全うした姿だから、なのかもしれないですね(泣きどころですよ!)。
赤穂義士墓地に「お墓が48基」ある理由とは? 季節ごとの姿も必見
泉岳寺の境内にある「赤穂義士墓地」には、今でも浅野内匠頭をはじめ、義士たちが埋葬されています。
この敷地内に全員? と驚くほど、義士たちの墓標が密着しているため「墓標だけかな」と思う方も多いそう。

立派な門の先に、浅野内匠頭や義士たちが眠る赤穂義士墓地があります
義士たちは、当時の埋葬様式である『座棺(ざかん)』の形をとっているため、密着して埋葬できているとのこと(なので、本当にこの場に眠られていますよ)。
実は義士のお墓を数えてみると、48基あります。
あれ? 四十七士なのでは? と思いますが、もうひとりは、討ち入りに参加できなかった萱野三平のお墓。
牟田さんが教えてくれた、「討ち入りに参加できず、先に切腹された方」です。
「赤穂義士墓地の門の横には、サクラの木が植えられています。そのため、サクラの時期はすごく綺麗です。実は、山門を閉めたあとに、お寺のみんなでお花見をしたこともありますよ(笑)」

美しいサクラの時期もおすすめです
ちなみに赤穂義士墓地の手前には、浅野内匠頭が切腹した際、その血がかかったと言われている「血染めの梅」や、最年少の16歳で討ち入りに参加した大石内蔵助の息子・大石主税(おおいし・ちから)が切腹した屋敷に植えられていた「主税梅」も移植されています。

義士墓地の手前にある「血染めの梅」と「血染めの石」
浅野内匠頭や義士たちのお参り、季節の花を愛でられる時期に伺うのも良いかもしれないですね。
▼浅野内匠頭終焉の地についてはこちらの記事で紹介しています
都心にひっそり佇む歴史的大事件の跡! 浅野内匠頭終焉之地
時の総理大臣も訪れた⁉ 年に2回開催される「赤穂義士祭」
「泉岳寺では毎日朝夕、義士の方々のご供養をしています」とのことですが、一般の方々の参拝も止みません。取材した日も、朝から国籍問わずたくさんの方が訪れ、義士墓地や赤穂義士記念館に足を運んでいました。
そんな泉岳寺では、討ち入りが行われた12月14日と浅野内匠頭が切腹した4月初旬、赤穂義士の忠義や武士道を称え、供養する「赤穂義士祭」が開催されます。
12月の討ち入りの日に開催される義士祭は、墓前供養だけでなく義士行列など、大きな賑わいを見せる一日。
「春の義士祭では、泉岳寺が所蔵する貴重な書などの公開も行っています。たとえば、『幕末三舟』と呼ばれる、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の書などですね。
12月の義士祭は討ち入りした12月14日に合わせて開催しており、とてもにぎやかです」
この投稿をInstagramで見る
そして、12月の義士祭で、忘れられない驚きの出来事を教えてくれました。
「義士祭は安全の関係上、警察や消防の方にもご協力いただいているのですが、夜9:00ごろにはお帰りになられます。でもその時は、夜9:00過ぎに別の警察関係の方がいらっしゃって、『今から総理大臣が来られますがいいですか?』って」
え!? そんな急に総理大臣が来るなんてこと、あるんですか?
「どうやら近くでお食事をされていて、義士祭をやっていることをお知りになったみたいです。こちらは構いませんのでどうぞ、とお答えしたんですが、大変なのは地域の警察や消防の方。みなさん一度お帰りになったのに、慌てて戻られて(笑)」
ちなみに某総理大臣は、屋台や赤穂義士墓地などを回られたとのこと。
「山門のすぐ脇に(総理と)同じ名字の看板を掲げる商店があるのですが、『おぉ、同じ名前だね!』と、楽しそうにお話されていましたよ(笑)」
なるほど、確かにその方が近くで赤穂義士祭を開催していることを知ったら、「そうか! 行こう!」と言いそうですよね。
高輪ゲートウェイから泉岳寺を眺める! 都会だからこその楽しみ方
2026年3月にいよいよ全体グランドオープンを控える高輪ゲートウェイシティ。泉岳寺からは、徒歩5分というご近所さんです。
「NEWoMan高輪の28階に展望スポットがあるのですが、そこから見る泉岳寺もおすすめです。ビルなどがひしめく中、ポコッと緑に埋め尽くされた泉岳寺の境内があり、都会のお寺なんだな、と実感します」

NEWoMan高輪の28階にあるコンセプトエリア「LUFTBAUM(ルフトバウム)」からの眺め
「高輪ゲートウェイに展望スポットなんてあったんですか?」と驚いていると、「天気のいい日は富士山まで見えますよ」と、牟田さん。
「夜は、泉岳寺の境内だけが真っ暗なので、より面白いですね」
お寺の見どころは境内に、と思い込んでいましたが、「展望スポットから見て楽しむ」というのは、都心だからできることですよね。
「赤穂事件」や「忠臣蔵」との関わり、そして知られざる学問所としての歴史。伺ったお話から感じられたのは、「忠臣蔵」は過去の物語ではなく、時代が変わっても揺るがない「義」を貫こうとした人々の生き様そのものだということです。
もし、何か迷いを感じているなら、泉岳寺に訪れてみるのはいかがでしょうか? 義士たちが命を懸けて守った「義」に触れることで、自身の「義」を見つめ直す時間を過ごせるかもしれません。
協力:東京都港区/みなとロケサポ
【曹洞宗 江戸三ヶ寺 萬松山 泉岳寺】
住所:東京都港区高輪2-11-1
アクセス:都営浅草線、京浜急行「泉岳寺駅」より徒歩3分、JR「高輪ゲートウェイ駅」より徒歩5分
時間:7:00~16:00、赤穂義士記念館9:00~15:30
※赤穂義士記念館:大人500円、中高生 400円、小人(10歳以上)250円
※赤穂義士墓地:お供えのお線香料(300円)

