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港区の坂・「綱坂(つなざか)」-鬼退治で知られる武将・渡辺綱生誕の地?-

2024年4月14日

名武将・渡辺綱(わたなべのつな)は三田生まれ?

「綱坂」は、港区三田2丁目。駐日イタリア大使館と三井倶楽部庭園の間にある坂道です。

坂道の由来を説明した看板によると

綱坂の看板に記された説明文

『羅生門の鬼退治で有名な、平安時代の武士渡辺綱(わたなべのつな)が付近に生まれたという伝説による。渡部坂ともいった。』

と書いてあります。実際、坂道に沿って広がる「綱町三井倶楽部の庭園の中には、一般公開されていませんが渡辺綱の産湯と伝わる井戸もあるそうです。

渡辺綱といえば、羅生門の鬼婆や茨城童子退治を筆頭に、鬼や妖怪を退治した伝説が多数残っている平安時代の武人です。全国に散らばる渡辺さんの祖であり、「節分の際に、鬼に恐れられている渡辺姓の人は豆まきをしないで良い」という習慣もこの人の伝説を由来としています。

芳年『羅城門渡辺綱鬼腕斬之図』

江戸時代に描かれた渡辺綱の浮世絵
出典:芳年『羅城門渡辺綱鬼腕斬之図』,長谷川常治郎. 国立国会図書館デジタルコレクション

渡辺綱は、清和源氏(せいわげんじ)三代目当主・源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)の郎党として、天歴7(953)年~万寿2(1025)年にかけて活躍した実在の人物。頼光の四天王に数えられており、この四天王には他に坂田公時(さかたのきんとき、童話・金太郎のモデルとなった人物)も含まれているため、伝説上の人物であると思われているきらいがあります。※坂田公時に関しては実在か想像上の人物かはっきりとしていません。

史実における渡辺綱とは?

では、実在の渡辺綱とはどのような人物だったのでしょう。綱は、第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)の子孫にあたる武蔵国の地方武士・箕田源宛(みだみなもとのあたる)の子でした。箕田(みだ)とは、綱の生家があった箕田村のこと。これは、現在の埼玉県鴻巣市です。

天皇の子孫が何故、地方の武士になったかということは、日本史マニアならすぐにわかるのでしょうが、あまり一般的ではありません。ここでおおまかに武士の起源2種類について解説をさせていただきます。本当はもっと細かいのですが……。

まずひとつは、皇族の経済的な問題から誕生した武士です。

奈良時代に制定され、以後国家の方として利用されてきた「律令制度」では、四世までの天皇の血縁者は等しく皇族として扱うことになっていました。ですが、平安時代前期の皇室に大量の王子が誕生したことにより、皇族の数が激増したのです。朝廷は皇族の生活費を国家予算から工面しなければなりませんが、平安時代の日本にはそこまでの経済力がありませんでした。

そこで考えられたのが、氏姓(しせい。現在の感覚で言うと苗字)を持たない皇族に、氏(うじ:血縁などでくくった同族の集団でを表す名前)や姓(かばね:職掌などでくくったの同族の集団を表す名前)を与えることによって、皇族ではない身分に落とすという政策でした。これを「臣籍降下(しんせきこうか)」と言います。現在でもこれを元とする「皇籍離脱」という制度が皇室典範に残されており、女性の皇族が民間に嫁ぐ際などに用いられています。

もちろん裸一貫で放り出すわけではなく、臣籍降下された元皇族には、どこかしらの土地が与えられます。「朝廷の予算では今後面倒を見ないけれど、土地をうまく経営して暮らしてね」と納得してもらったわけです。

この際皇室から与えられる氏姓は、前例に倣いほぼ4つに固定されていました。すなわち「平(たいら)」か「源(みなもと)」という姓(セイ)に、「宿禰(すくね)」か「朝臣(あそん)」という姓(カバネ)の組み合わせです。こうして京を追放され、地方で暮らさざるを得なくなった元皇族は、自分たちが生きていく土地を守るために、武装しはじめました。

中央では切り捨てられた身ですが、地方へ行けば高貴な血筋として敬われます。気が付けば、地方で自治のために武装していたような小規模豪族や、中央から派遣されてきたものの領地経営がうまく行かず武力を欲していた中小貴族らが、臣籍降下して地方へ飛ばされた元皇族の下へ集まるようになりました。こうして、源氏と平氏という日本の二大武士団が誕生していくこととなりました。

有名なところですと、10世紀に自ら新皇と名乗り、関東を拠点に朝廷へ反乱を起こした平将門。彼は、桓武天皇の血を引く「桓武平氏(かんむへいし)」の一族です。

平将門が出る歌舞伎の一場面を描いた錦絵 出典:豊原国周『平将門島広山討死の場』,石井六之助,明治23. 国立国会図書館デジタルコレクション

もう一つは、京で出世の機会を失った下級貴族が武芸を磨くことで上級貴族に仕えるようになった武士です。10世紀になると京の治安も極めて悪化し、力をもった勢力が武力でライバルを脅すという事件が頻発します。そのような中、有力な貴族は身辺警護を行ってくれる武芸に秀でた者を探し出し雇用するようになりました。

生まれのせいで中央政界での出世がこれ以上見込めなくなった貴族らが、こうした上級貴族の下へ武芸を磨いて仕えるようになります。彼らは高貴な人物の側に「侍ふ(さぶらふ)」者という意味の、「さむらい」と呼ばれるようになりました。摂関家の藤原本家とは遠縁にあたる中流の藤原氏橘氏などが多く、佐藤や工藤といった「藤」の文字が入る苗字の祖はほとんどがこうした「侍」からきていると考えられています。

侍は上流貴族の命令で地方荘園へ派遣されることも多く、そのうち源平の武士団と同化していくこととなりました。やがて中央で高貴な身分の方々を警護する侍の仕事も、実質的には源平の一族が担うようになりました。なので、日本の武家はそのほとんどが「源平藤橘」いずれかの氏族のにたどり着くと言われています。

閑話休題。

綱の生家である箕田源家は、嵯峨源氏の本家であり綱はその五代目。しかも嵯峨源氏は、嵯峨天皇の第12皇子・源融(みなもと の とおる)にあたる血筋です。源融と言われてもほとんどの方にはピンとこないでしょうが、源氏物語の主人公である光源氏のモデルといえば「あ!」と思うのではないでしょうか。

つまり、実在の綱は、関東有数の超名門武士でした。

ですが、彼が生まれるとほぼ同時に、父が亡くなっています。女手一つで息子を育てるのは難しい時代でしたので、綱の母は乳飲み子の綱を連れ、生家である摂津国西成郡渡辺(現在の大阪府大阪市中央区)に移り住みました。やがて綱も、自分の生まれ育った地の名を氏とし、源綱を改め渡辺綱と名乗り始めます。

さて、当時摂津国は「摂関政治」を行い朝廷内での権力を恣にしていた貴族・藤原道長の任国(管理を命じられた国)でした。

『紫式部日記絵巻』に描かれた藤原道長 出典:Wikipediaよりパブリックドメイン

とはいえ、わざわざ道長が摂津にまで足を運んで政を行うことはありません。実際に摂津を治めていたのは、藤原道長の傍らに侍っていた筆頭武士・清和源氏(せいわげんじ)3代目の源満仲(みなもとのみつなか)です。

江戸時代に描かれた源満仲 出典:菊池容斎 (武保) 著『前賢故実』巻第5,郁文舎,明36.7. 国立国会図書館デジタルコレクション

満仲は、摂津で暮らす名家の跡取り・渡辺綱のことを知ると、娘婿の養子として迎え入れ、自身の跡継ぎである息子・源頼光の従者(郎党)とします。

綱はこうして、摂関家の筆頭武士団であった清和源氏次期棟梁直属の武士として、京で活躍することとなったのです。実際、綱は頼光の出世に伴う形で出世しており、最終的には従五位下、すなわち内裏の中へ上がることが許される身分にまで成り上がっています。

と、ここまで知ったところで疑問に思った方も多いのではないでしょうか?

だったら綱は、綱坂近辺に居住していなかったんじゃないの?と。

実際江戸時代の名所旧跡を紹介する本『江戸名所図会』の「三田」の項目には、はっきりと、

『此地を以渡辺の綱の旧跡するは誤りなるべし』

出典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[3],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館デジタルコレクションを一部加工

と記されています。綱坂の隣には、幼い綱が手を引かれて登ったと伝わる綱の手引坂という坂もあります。

綱の手引坂

が、史実を知る限り、綱が手を引かれて歩けるまで三田で暮らしていなかった可能性すら浮かんできます。ちなみに同様の疑問は江戸時代の人びとももっていたようで、前述の『江戸名所図会』にはさらに『三田と(埼玉の)箕田が同訓なので混同したんだろう』とまで書かれています。

港区の説明文でも「伝説」としているのは、断定が難しいからなのでしょう。

全国に広がる武人・渡辺綱のイメージ

そもそも、渡辺綱の仕えた源頼光は、父である源満仲と異なり武力闘争より京での政治に明け暮れた人物でした。史学の世界では、武人というよりは、藤原摂関家の家司(名家の資産管理や運営などを取りまとめる職にあたる人)と見られることが多いです。

『前賢故実』に描かれた源頼光 出展;菊池容斎 (武保) 著『前賢故実』巻第5,郁文舎,明36.7. 国立国会図書館デジタルコレクション

そのため彼の郎党として働いていた綱も、武将としての活躍はあまりありません。ですが、綱には妖怪退治の伝説が数多ついて回り、武人としてのイメージがあります。実はこうしたイメージは、実際に彼が生きていた時代よりはるか後年になってから創られたものです。

平安時代末に成立した『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』では、平安時代を代表する武人として源頼光が紹介され、当然のごとく彼の郎党である綱も日本を代表する武人に数えられています。室町時代に成立した『御伽草子(おとぎそうし)』には、渡辺綱の妖怪退治といえばこれ!とされる大江山の酒呑童子退治のエピソードも登場しますし、やがて他の鬼退治民話の主役が渡辺綱に切り替わるといった現象も起こり始めます。

渡辺綱が武人化した理由について、作家の藤井勝彦氏は2021年に面白い考察をされています。「綱の武人のイメージや民話を広げたのは、綱の子孫ではないか」というのです。

史実によると綱の子孫は摂津の地に根付き、「渡辺党」という武士団を形成しています。渡辺党はやがて「滝口の武士」と呼ばれる内裏の警護を担う名門武士団となりました。鎌倉時代に入り朝廷権力が衰退。内裏警護の仕事がなくなると、今度は淀川と大坂湾が目の前という地の利を活かし大規模な水軍を組織。大坂湾を利用した海運で全国津々浦々の人びとと交流を持ち財を築きます。一般的に渡辺姓の人が全国に多い理由は、この海運交易で、渡辺党が全国に散らばったからとされています。

このことから藤井勝彦氏は、「滝口の武士を務めるほどの名門となった渡辺党が、自らの祖の武勇を大きく見せるため、昔からあった妖怪退治の民話と綱の活躍を結び付け始めたのでは」と考えたのです。

渡辺党の作った民話は、やがて書物の中にも記されるようになりました。そうした物語を知った全国に散らばった綱の子孫たちは、この武人が自らの祖先であるとして、周囲の人々に綱の妖怪退治伝説をさらに語り継ぎます。場合によっては、先祖を祀る祠を立てたりもしたでしょう。これが武人・渡辺綱のイメージを形成し、日本各地に散らばった渡辺綱の旧跡につながったのではないかというのです。

渡辺綱は、民話のような作り話を除いた文字記録の少ない人物ですので真実はわかりません。ですが、三田に渡辺綱伝説が由来の坂や旧跡があるということは、この地にも遠く大坂から海を渡り、渡辺党の誰かがたどり着いたのでしょう。

「綱坂」という坂名は、日本人が昔から海を使った交易で遠隔地ともやり取りをしていた証明ともとれるわけです。そう考えると、とてもロマンがある地名だなと思いませんか?

【綱坂】
〒108-0073 東京都港区三田2丁目4−19

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