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【中村碁盤店】歴史を刻む地とともに歩んできた仕事人たち

2024年4月18日

各エリアで再開発が行われるなど、新陳代謝も活発な東京都心部ですが、一方で創業100年以上の老舗も多数あります。この企画は、そんな老舗にお話を伺い、老舗の歴史に結びついているかつての街の姿を掘り起こすコーナーになります。

今回は、新橋四丁目の新虎通りと日比谷通りが交わる交差点の一角で、大正元年から碁盤店を営む、中村碁盤店の三代目、中村英信さんにお話を聞きました。

日比谷神社 (画像提供)浜松町・芝・大門マーチング委員会

創業の経緯と大銀杏の木

祖父の代から三代にわたって碁盤店を営んでいる中村さん。
大正時代から写真を撮っていて自身で現像されていたという、初代店主撮影の貴重な写真の数々もお話の中で見せていただきました。

初代からお店の様々なできごとを聞いているとのことで、まずはお店ができた経緯についてお聞きしました。

「明治の頃、祖父は東京で一旗あげたいと思い、信州から上京してきました。最初は、運送や時計店の手伝いをしていたようです。非常に手先が器用な人でした。その後小伝馬町で碁盤屋の手伝いをすることになり、そこで仕事を覚えたようです」

江戸時代から依然として碁は人気があったため、仕事に将来性を感じた初代は自分の碁盤店を立ち上げることにしたとのことです。

「店を出すにあたって、最初は人の紹介で土地を借りることになりました。その際、日比谷通り沿いの土地か赤レンガ通り沿いの土地のどちらかを選ぶことになって……」

日比谷通り沿いの土地、というのが現在のお店がある場所で、赤レンガ通りというのはもう一本東の、より新橋駅に近い通りです。

「当時、赤レンガ通りは屋台が立ち並ぶ賑やかな通りでした。しかし、当時から通りの幅が広く、高い建物が多かった日比谷通りの将来性に魅力を感じ、今の場所に決めたそうです」

そういった経緯で大正元(1912)年に現在の場所で創業することになったそうですが、関東大震災前のことなので、当時の通りの様子を含め、貴重な知見ですね。
ちなみに、当時は大通り沿いこそ賑わっていましたが、一本入ると下町で、子どもたちが道の上で遊んでいた、という初代から中村さんが聞いたというお話もいただきました。

大正12(1923)年、関東一円は関東大震災に見舞われます。お店は大丈夫だったのでしょうか。

「初代が開いたお店は自ら建てたバラックのようなものでした。当時、北から火災が広がってきたので、碁盤などの品物や家財、そしてこの時計を大八車に乗せて、芝公園まで避難したと聞いています」

三代目・中村英信さんと時計

時計、というのは、英信さんの後ろに掛かっている、見るからに古そうな時計。
聞いてみると、明治に作られたものだそうです。

「祖父が創業時に中古で買ったもので、明治時代に作られたものです。アメリカ製で、横浜港で輸入されたものを購入しました」

それはとてつもなく貴重なものなのでは……。
振り子式で「中村碁盤店」と刻まれたそれは、現在も悠久の時を刻んでいます。

さてここで、中村さんは一枚の写真を見せてくれました。
それは、焼け焦げたとても高い木と、その前に建つ中村碁盤店の写真でした。

銀杏の木 そして左下が当時の中村碁盤店

 

「(赤穂事件の発端となる)浅野内匠頭の切腹は、田村家上屋敷の中ではなく、庭先で行われました。その庭には、ひときわ大きな銀杏の木があったといいます。それがこの銀杏の木です」

「赤穂事件」は『忠臣蔵』としてさまざまな創作の題材となっていますが、庭で切腹が行われた際の状況は、切腹を任せられた田村家の『浅野内匠頭御預一件』という文章に残っており、史実といえます。この銀杏の木は、浅野内匠頭の切腹を目撃していたといえるかもしれません。

中村碁盤店のちょうど目の前には、「浅野内匠頭終焉之地」の石碑が建てられています。

中村さんは、この大木から石碑に至るまでの物語を話してくれました。

「この木は江戸でも有名な大銀杏で、江戸湾に入ってくる船の目印になっていたほどでした。しかし関東大震災で燃えてしまい、倒壊すると危ないので切り倒そうということになりまして」

明治時代に愛宕山から撮影したこちらの写真に写っている巨木は、この木のことだったんですね!

「しかし、それだけ大きな樹を切り倒すということもあり、切り株だけ残して『銀杏稲荷』として祀ることにしたんです」

なお補足すると、その銀杏稲荷は第二次世界大戦で焼失してしまったそうです。

石碑を建てた際の様子

「石碑については地元の人間でお金を出し合って建てました。実は向きが変わったり、日比谷通りや新虎通り整備でちょっとずつ場所は動いていますがね。
隣に桜の木が植えてあるでしょう? これは少し早咲きの品種を選んで、(浅野内匠頭の)命日の3月14日ごろに咲くようになっています。
毎年その命日と、(赤穂浪士の)討ち入りの日である12月14日には、祖父の代からずっと、中村碁盤店の店主がお酒とお花、そしてお菓子をお供えしているんですよ」

お店の前に立つ「浅野内匠頭終焉之地」の碑

祖父が語ったお客の記憶

戦時中は空襲を避けるため、初代は自転車にリアカーをくくりつけ、同じように商品や時計を含む家財を持って信州まで走ったそうです。
そして、戦後はいち早く東京に戻り、店があった場所を確認したそうです。一帯は一面の焼け野原となっていましたが、店の位置は瓦礫の下に碁石が残っていたため分かった、というエピソードもあるそうです。

それから英信さんがお店を継ぐまで、どのようなことがあったのでしょうか。

「父も優秀で、さらに孫の代も祖父は男に継いでほしいと思っていたようですが、僕の前は三人とも姉で(笑)。僕が生まれたときにはそれはもう喜んだそうです」

末っ子で待望の男の子という英信さんを、初代は大変可愛がったとのことでした。

「祖父には色んなことを教えてもらい、新橋や浅草など様々な場所に連れて行ってもらいました」

その中で、当時の水上バスが思い出に残っているそうです。

「当時は土橋(新橋駅の北側)まで船が来ていて、そこから隅田川方面の船に乗りました。今の水上バスからしたら比べ物にならない小さな船ですけどね。川も汚くて、若干匂いもしました。当時の流行歌で『銀座九丁目は水の上』と歌われていた辺りです。その後、オリンピック前には川は埋め立てられてしまいました」

確かに、浜離宮から東銀座方面まで昭和の頃は水上バスが入ってきていたという記録があり、現在「銀座ナイン」という商業施設の名前にだけわずかに痕跡が残っている場所です。

銀座ナイン 上を走る高速道路の真下が川だった

「自分も手先を使う仕事が嫌いではなかったので、最初は自動車整備の学校に行こうとしましたが、周囲から技師になれるとは限らないと言われたりして、中学・高校の頃には店を継ぐことを意識していました」

卒業と同時に本格的な碁盤づくりの修行を始め、店を継いだのは昭和49(1974)年のことだったそうです。

「それから経験を積んで、祖父が亡くなる昭和58(1983)年にはそこそこ仕事ができるようになっていました。祖父も安心してくれたんじゃないかなと思います」

話は前後しますが、まだ初代が健在で、英信さんが店の手伝いをしていた頃の印象に残っているお客さんの話をしてくれました。

「自分は配達でいなかったので後から祖父に聞いた話なんですが、当時の価格で100万円の碁盤を買ったおじいさんがいたそうです。その人は『碁盤は縁起もので、熊手のようなものだ』と言って、『88万円(末広がり)の領収書を書いてくれ、残りの12万円はご祝儀として渡させてくれないか』と祖父に頼んだそうです。粋なお客さんだったと祖父は言っていました。気持ちのいい方ですよね」

中村碁盤店の碁盤について

最後に、中村さんは祖父も太鼓判を押したという、一千万円の碁盤を見せてくれました。
ちなみに、プロのタイトル戦で使われるものは数百万円クラスということで、それを上回る価値をもつの碁盤ということになります。

「祖父もこれ以上ないものだと言った、『天地柾(てんちまさ)』の本榧盤です」

「天地柾」とは、「天から出た木目が地へ」の意味で、横から見た際に木目のカーブが天地均等になっていることを示していて、最も木目が美しく見える切り出し方だそうです。

最も美しい木目とされる天地柾

「もう碁盤になるような樹齢の榧の木の立木は日本にはないといっていいですね。あったとしても、神社の境内や資産家の邸宅内とかになります。それでもうちは日本の榧を使い続けてきました。そうやって商品を作り続けてこられたのは、祖父が立木の選定から直接買い付けまで行ってきた原木があったから。木は空洞があったりして、切ってみないことにはわからない。試行錯誤を繰り返して、磨いた目利きの腕があってのものです。それに、どんなにいい木でも乾燥中に割れやカビが発生してしまうかもしれない」

碁盤を作る際、最も時間がかかるのが切り出したあとの乾燥作業。おおよそ10年を費やす必要がありますが、その間に割れやカビが発生するリスクもあります。乾燥を無事済ませれば、そこからはたった10日ほどで完成してしまうといいます。
ちなみに、将棋盤よりも碁盤はサイズが大きいため、もし割れやカビが発生しても、削って将棋盤として作り変える場合もあるそうです。

「(碁盤を作るうえで)一番難しいのが線引き作業。作るときは、使ってくれる人を想像しながらのことが多いです。どんなお客さんが使ってくれるんだろう、と線を引きながら考えてしまいます」

時間をかけて完全乾燥させた本榧の碁盤は耐久性にも優れているため、購入された方とは長い付き合いになります。

中村さんは、「碁盤は全て一品もので、一つとして同じものがない」ともおっしゃっていました。それは単に、同じ木目の木はないという意味だけではありません。
親子三代にわたって、木の選定や継承されてきた技術によって作られた碁盤は、中村碁盤店でしか作れない、お店の歴史が詰まった世界に一つしかない碁盤といえるでしょう。

【中村碁盤店】
住所:東京都港区新橋4丁目31−7
時間:11:00~17:30
定休日:土日祝
アクセス:JR・地下鉄銀座線新橋駅「烏森口」から徒歩10分、都営三田線内幸町駅「A1出口」から徒歩5分

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