港区歴史探索・地名のヒミツ 「芝大門」~門前町からオフィス街へ~
浜松町・大門駅から東京タワーの方向へ歩くと、オフィス街の中にひときわ目立つ門を見つけることができます。これが「大門」。増上寺の旧総門になります。
現在の住所としての「芝大門」は、増上寺の門前町として発展したエリアで、そこには芝大神宮も含まれています。
江戸の門前町から、どのようにして芝大門は現在のオフィス街に変化していったのでしょうか。
転機となった増上寺の移転
今やこの地域の顔ともいえる増上寺ですが、実は徳川家康が江戸城に入るまで、芝ではなく別の場所にあったお寺でした。
増上寺が徳川家の菩提寺になったこと、元の敷地が江戸城の拡張予定地にあったことなどが重なり、家康の江戸入り時に、増上寺は江戸城の裏鬼門である芝に置かれることになりました。
増上寺の移転先には芝大神宮があり、玉突きで芝大神宮も現在の場所に遷宮することになります。
つまり、増上寺と芝大神宮がある今の街並みになったのは、江戸時代が始まる直前のことでした。
江戸時代の間、門前町としてこのエリアは栄えていきます。
当時増上寺は修行僧だけでも3000人以上がいたとされる、巨大な寺院でした。最盛期のその敷地は、現在の芝公園に東京タワー周辺を加えた範囲にまで及んでいたといいます。
江戸時代のこの辺りの地図を見ると町家が立ち並んでおり、それだけ巨大な増上寺の門前町として、にぎわっていたことが想像できます。
このように、増上寺がこの地にやって来たことが、芝大門にとって大きな転機となったといえるでしょう。
【大本山 増上寺】
住所:東京都港区芝公園4-7-35
「関東のお伊勢様」とも呼ばれた芝神明宮
一方、現在の場所に移転した芝神明宮(現在の芝大神宮)の周囲も、芝神明宮が江戸幕府に重視されたこともあって、発展をみせていきます。
芝神明宮自体は平安時代からある、非常に歴史のある神社です。伊勢宮を勧進しており、天照大御神と豊受大神を祀っています。そのことから「関東のお伊勢様」とも呼ばれ、はるか遠い伊勢神宮へ参拝に行くことができない人々を含め、江戸時代以降多くの参拝者を集めることになりました。
境内では相撲の興行や芝居に寄席が開かれ、娯楽の中心になっていたことが、現在でも歌舞伎の演目になっている『め組の喧嘩』からも窺い知ることができます。
さらに現在でも続く「だらだら祭り」は江戸時代にはすでに行われており、最初は数日の祭りだったものが徐々に期間を伸ばして、現在のように11日間にわたって開催されるものになったようです。「だらだら祭り」の特徴は、別名「生姜祭」と呼ばれたように、生姜市が開かれていたこと。歌川広重の錦絵にも描かれているほどで、現在でも縁起物として生姜が売られています。
このように芝大神宮は娯楽の場としても発展し、江戸時代の参拝客の増加もあって、周囲はにぎやかな繁華街になっていきます。
その後市場などが立ち並ぶ商業地として、芝大門エリアは明治を過ごします。
このころ鉄道が開通し、浜松町駅が誕生。ここから風俗・娯楽の街というより、商業地としての性質が強くなっていったと思われます。
【芝明神宮】
住所:東京都港区芝大門1-12-7
近現代での移り変わり
関東大震災での被害はあったものの傾向は変わらず、太平洋戦争を迎えますが、空襲によってエリアは壊滅的な状況となり、ある意味白紙の状態から浜松町周辺も再スタートとなりました。
東京がオリンピック開催地に選出される前年には東京タワーが建造され、浜松町駅からはモノレールが発着、そして浅草線が新橋駅から大門駅まで延伸してきます。
オリンピック後には世界貿易センタービルが誕生したことと、前述のような周辺とのアクセスが良好になる交通インフラの整備に加え、元々伊豆諸島へ竹芝から客船が出ていたことから、交通の要衝として、浜松町はビジネス街としての側面が強まりました。
その頃住居表示の実施に伴う地名の再編が行われましたが、このエリアは元々中門町・片門前・七軒町・宮本町といった町名で、七軒の地主が所有していたという由来の七軒町と芝神明宮が由来の宮本町以外は、門前町であるということを示すだけで固有の地名といえるものはありませんでした。
結果として、増上寺旧総門の愛称として呼ばれていた「大門」が地名として設定されることになったのです。
このように、江戸の文化の一端を担うエリアから、オフィス街へと変貌を遂げた芝大門。
芝大神宮を中心として、今後も江戸時代から続く歴史を伝えていくエリアになるでしょう。