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【港区の港・歴史編】東京湾は魚の宝庫――「おかめ鮨」店主が語り継ぐ雑魚場跡の歴史

2024年2月2日

港区立本芝公園。線路もほど近く、近隣にはオフィスや集合住宅が建ち並び、子どもたちが遊具で遊び、大人たちが寛ぐ、区民の憩いの場です。

かつてここは、東京湾に面した江戸内でも屈指の漁港でした。「雑魚場」と呼ばれる魚市場も開かれていた場所なのです。

今回はこの雑魚場の変遷について、「芝百年会」副会長を務める「おかめ鮨」店主・長谷文彦さんへのインタビューを交えてご紹介いたします。

雑魚場の歴史

ぴんぐ

昭和時代(左)と平成時代(右)の雑魚場跡

まずは簡単に、雑魚場の歴史を振り返ってみましょう。

長谷さんよりご提供いただいた画像は、同じ雑魚場跡を映したものです。昭和時代は海に面していた干潟が、平成時代は陸の公園へ変貌を遂げているのがよくわかります。

雑魚場の成り立ち

うたがわ

出展:綿谷雪 著『江戸名所100選』より「芝浦の晴嵐」(初代広重錦画)[1973]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9640367/1/64 (参照 2024-01-25)

東京湾は、はるか昔から水産物との関りが欠かせない場所でした。漁業の歴史は縄文時代にまでさかのぼり、縄文時代早期の史跡・夏島貝塚からは、ハマグリやカキなどの貝殻、マグロ、クロダイなど魚の骨が出土されています。

芝地区は、東京湾の漁業を支える港でした。この地区の漁業を語る上で欠かせないのは、「本芝浦」と「金杉浦」という2つの浦。中世には、本芝浦と金芝浦につながる漁村が沿岸に形成されていたとされます。

徳川家康が江戸に入府した16世紀末以降は、この両浦が鮮魚や海産物を江戸城へ上納しました。江戸城へ食材を納めることを「御菜上納」といいます。江戸湾の魚の「御菜上納」は、品川浦や新宿浦を加えて8浦(御菜八ヶ浦)に限られました。金杉・本芝の二つの浦は「元浦」と称し、これらの元締めとしての地位を確立していました。

江戸城へ納入する魚は、タイやヒラメなど、当時の高級魚が中心。元浦では、住民がその他の庶民が食べる下魚、いわゆる「雑魚(ざこ)」を東海道で売りさばくようになりました。これが「雑魚場」の名前の由来となりました。

歴史の変遷

ざこば

出展:東京都港区立みなと図書館 『写された港区 1』より「雑魚場 昭和38年(芝・写真でみる100周年記念号)」, [1981]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9642135/1/110 (参照 2024-01-25)

江戸時代末期には、海洋環境やまちの変化も要因の1つとなり、東京湾の漁獲高は減少傾向に転じます。しかし、明治19(1886)年、海苔の養殖が始まると、両浦は再び活気づいていきました。明治31(1901)年頃には、台場周辺で芝エビやアサリ、カキ、サワラ、タイなどの漁が行われていました。

大正12(1923)年の関東大震災時には、仮設魚市場が設置されたほど、雑魚場は東京湾漁業において重要な場所でした。この仮設市場は、後の築地市場、移転後の豊洲市場のもととなります。その後、太平洋戦争などの大戦は、労働力の低下や資材不足を招き、内湾漁業は厳しい状況下に立たされました。戦後は港湾整備のため急激に埋め立てが進み、工場の急増などにより海洋環境も悪化を余儀なくされました。

結局、昭和37(1962)年は、芝浦エリアの漁民は漁業権を放棄することになりました。本芝浦の雑魚場は昭和45(1970)年に、公園へと整備されました。形は変わりましたが、人々が集まる場として、現在もなお地元の人々に愛され続けています。

「おかめ鮨」5代目インタビュー ~雑魚場と港区の変遷~

外観

江戸時代から続く老舗の名店「おかめ鮨」

港区芝にある「おかめ鮨」は、江戸時代の安政2(1855)年に創業された老舗の名店。同店の5代目店主にして「芝百年会」副会長を務められ、雑魚場の変遷をよく知る長谷文彦さんにお話を伺いました。

はせさん

気さくにお話してくださる大将・長谷さん。常連のお客様が多いのも頷けます

芝の地に生まれ育ち、よく遊んだという雑魚場跡の変遷も目の当たりにされてきた長谷さん。釣りが好きで、よく海にも出られるそうです。今も昔も、海辺のそばで過ごされてきた長谷さんに、お店と雑魚場の歴史、そして東京湾への想いを語っていただきました。

雑魚場と将軍家、「おかめ鮨」のルーツ

長谷さんとお寿司

徳川幕府を支えた、先祖代々受け継がれる味

「もともと『おかめ鮨』は、デリバリーから始まったんです」――長谷さんに伺ったところ、「おかめ鮨」のルーツは徳川家ゆかりの名刹・増上寺に関わっていたそうです。徳川家との縁が遠い「外様大名」たちは、江戸城へ登城する際に、反乱の意思の調査も兼ねて、2~3日増上寺に留め置かれることがありました。

そうした「外様大名」たちへふるまう料理として、初代「おかめ鮨」大将は、お寿司を下屋敷や増上寺に届けていたそうです。外様大名たちの心をほぐし、本心を引き出すため、新たに江戸名物となった握り寿司が求められていたのだそう。徳川幕府の安泰を守るためにも、「おかめ鮨」のお寿司がひと役買っていたのですね。

古来のお寿司は「なれずし」という、魚を塩と米飯で漬け込み、乳酸発酵させたものだったそうです。「京都や大阪から東京に伝わったのですが、なれずしは完成までに何年もかかります。作るよう仰せつかって、すぐにできるものではありませんでした」。

そこで、当時の江戸の人々が工夫して作ったのが、江戸オリジナルのお寿司。酢飯と合わせて、生で食べる文化が生まれました。

芝の近くでは、アナゴやキス、カレイなど、惣菜に使える新鮮な魚が簡単に手に入る雑魚場がありました。「雑魚場が近くにあったから、海の幸と山の幸を合体できておいしいお寿司を作れたんです」。初代大将が創り出した、塩、酢、醤油といった調味料を駆使したオリジナルの味と技は、5代目の長谷さんへと受け継がれ、来店客の目と舌を楽しませています。

漁業から海苔の養殖へ

マーチング

消える雑魚場(昭和41年)/(画像提供)浜松町・芝・大門マーチング委員会

明治34(1901)年頃には、カキと海苔の一大養殖地として知られていた雑魚場。コニカミノルタの浜松町・芝・大門マーチング委員会よりご提供いただいた昭和の雑魚場を描いた画像からも、往時の盛況ぶりが伝わります。敷設された鉄道や、右手奥に描かれている三菱重工のビルに目がいきがちですが、メインとなるのは繋がれている小舟です。この船は、海苔やカキの養殖で使っていたものなのだそう。

「描かれている船は木造ですが、当時は海苔の養殖だったからこそ、木造の小ぶりの船でも大丈夫だったんです」。

長谷さんと日々野さん

芝地区の歴史の語り部である、大将・長谷さん&芝百年会顧問・日比野薫さん

東京湾は今なお鮮魚の宝庫

東京湾には浅い砂が続く台場や、カキの養殖場所もあって、優れた漁場だったはずだと語ってくださった長谷さん。ですが、長谷さんが幼少の頃には、漁業権も放棄され、雑魚場があったあたりの砂浜は大変汚染されていたそうです。

「僕らは雑魚場ではなく、小さい浜でちいはま、と呼んでいました。当時は浜も汚かったので、泳いだりする場所というよりは、走ってくる電車を近くで眺められる場所としてよく行っていましたよ」。ですが、おかめ鮓を継いだ現在は、雑魚場、そして東京湾に対してまったく別の印象をお持ちのようです。

「水質は年々きれいになっていき、自然回復力には目を見張るものがあります」。スズキ、コチ、ヒラメ、クルマエビ、コハダなど、釣り好きの長谷さんは、現在でも大物の魚を獲ることも多いそう。

「東京湾は鮮魚の宝庫」という長谷さん。いつの日か、また東京湾で多くの魚や海産物を獲れればと、今後の展望を語ってくださいました。

長谷さんが寿司職人になるまでの物語や、「おかめ鮨」の気になるお話は、後ほど「港区老舗の名店」特集にてご紹介させていただきます!

おかめ鮨
住所:東京都港区芝4-9-4
時間:11:30〜13:00、17:00〜22:00
定休日:毎週土曜日・日曜日、祝日
アクセス:JR田町駅、都営浅草線・都営三田線三田駅より徒歩8分

 

 

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