港区の坂・「潮見坂」
各所に点在する潮見坂
港区にある潮見坂は、三田3丁目と4丁目の間にある坂で、田町駅から三田通りを渡り、白金高輪駅方面に向かう途中にあります。
同名の坂は都内だけでもいくつもあり、港区では虎ノ門にも「汐見坂」が存在しています。
さらに、港区のホームページには記載がなく坂道名の標識もありませんが、六本木5丁目にも潮見坂が存在しています。
以前はさらに多くの「潮見坂」があったようで、特に三田4丁目にある「伊皿子坂」は、『江戸名所図会』において潮見坂として紹介されています。
これらの坂の共通点は、全て東に向かって下っている坂ということ。
つまり、坂の名前がつけられた際には、どの坂からも東京湾(当時は江戸湾)を望むことができたということです。
“坂の上から芝浦の海辺一帯を見渡し、潮の干満を知ることができたため、この名がつけられた。汐見坂とも書いた。”
(https://www.city.minato.tokyo.jp/kyouikucenter/kodomo/kids/machinami/saka/72.htmlより引用)
では、いつまでこの坂から海が見えたのでしょうか?
明治にはもう海が見えなかった?
江戸時代から東京湾の埋め立てが盛んに行われていたことは、周知の事実です。
徳川家康が幕府を開いた時点での江戸の地形は、複雑怪奇で、現在からは想像もできないものでした。
最大の埋め立ては江戸城の東一帯に広がっていた「日比谷入江」のエリアですが、その南の新橋~品川駅の現在の鉄道路線の経路ですら江戸初期は海の底でした。
江戸初期はおおむね現在の国道15線沿いに砂州が広がっていましたが、1632年までに現在のJR線沿いまで埋め立てが進んだことにより海岸線が後退しました。
その後、明治から昭和初期にかけての東京湾整備に伴う隅田川口改良工事の残土によって現在のJR線の東側が徐々に埋め立てられていき、明治40年代には現在の芝浦エリアが形成。かつての豊かな漁場はふ頭へと姿を変えました。
そのため、遅くとも1910年代には、潮見坂から海は見えなくなってしまったと思われます。
江戸初期には「海辺一帯を見渡せる」ものだった潮見坂からの景観は、急速な東京湾の変化により、すぐ近くを通る東海道、そして東海道本線の整備によるにぎわいを眺めるものになっていったのでした。
まだ海が見える潮見坂はあるのか?
多数ある潮見坂ですが、都内にある同名の坂からはもう海を望むことはできません。
では、現在でも海が見える潮見坂は? ……その答えは静岡県湖西市にあります。
歌川広重が東海道五十三次の白須賀宿付近を描いた『白須賀 汐見阪図』。ここで描かれた「汐見阪」は現存しており、坂の頂上からは江戸時代同様遠州灘を一望でき、富士山を見ることもできます。
当時は版画への印字の都合で「汐」の字が好まれましたが、現在では「潮見坂」として名前を残しています。
この潮見坂は東海道が整備された江戸時代、江戸から京に向かう際は箱根に並ぶ難所としても有名で、急坂は今も健在です。しかし、西(京)からこの坂に差し掛かった場合、初めて太平洋と富士山が望めるスポットだったとされており、この坂を下りながら眺める景色は格別なものだったのでしょう。