港区の坂・「笄坂」
「笄(こうがい)」という地名は謎だらけ
笄坂は、麻布2丁目から4丁目にかけての首都高下にある坂道です。港区観光協会のHPによると、その由来は以下のように記されています。
“坂下を流れていた笄川の名からついた付近の地名によって、こう呼ばれるようになりました。”(https://visit-minato-city.tokyo/ja-jp/places/2083visit-minato-cityより引用)
かつてここには笄川という川が流れていたそうです。残念ながら川は大正時代から徐々に地中化されていき、現在は完全な暗渠となっているため姿を見ることはできません。
「笄」とは、女性が髪を結い終わった後に使用していた髪飾りのことです。元々は、身分の高い男性が烏帽子や兜などを着ける際にさっと髪を形づくったり、頭をかくのに携帯していた道具でした。しかし時を経るにつれ、女性が髪を飾るための道具に役割が変化していきました。
江戸時代には「笄」という地名の由来は既に不明
坂道の名前の由来は川の名前からついていることはわかりました。では、川の名前の由来となる「笄」はどこから来たのでしょう?
実は今から約200年前に出版された「江戸名所図会」という地誌でも由来は断言されておらず、様々な説が紹介されています。
曰く、
①かつてこの地が「䳨が谷(こうがや)」と呼ばれていたことから、架けた橋に「銄匙(こうがい)」という当て字を当てた説
②10世紀ごろ、「平将門の乱」で活躍した源経基という武士がこの橋にあった関所を通る際、身分証代わりに笄を渡した説
ですが、江戸名所図会の解説者は異説を唱えています。
長録年間(1457~1460年)の江戸地図では、青山の辺りを「國府方」と記していたそうです。永禄2(1559)年の役人名簿にも、森彌三郎という役人の領地として「國府方」の名が記録されています。このことから「國府方の谷」が転じて「國府が谷」→「こうがい」となったというのです。
この解説によると、江戸時代の人は現在の市ヶ谷や越谷、鳩ケ谷も「いちがい」「こしがい」「はとがい」と読んでいたようで、かつての江戸訛りが知れて面白いですね。
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