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『赤坂消防署発祥之地碑』って何?

2024年10月3日

人通りはそこそこあるのに、足を止めている人は見たことがない。そんな石碑が青山一丁目駅を出て、すぐ隣にあります。

碑文を読むと、『赤坂消防署発祥之地』との文字。

“消防制度発祥の地”碑だったらわかるのですが、なぜわざわざ“赤坂消防署発祥の地”を顕彰しているのでしょうか?

歴史好きの血が騒いだので、調査してみることにしました。

そもそも消防署っていつからあるの?

“火事と喧嘩は江戸の華”という言葉が知られるくらい、江戸は火事が多い町でした。世界有数の大都市である江戸では、ひとたび火事が起こると甚大な被害が発生してしまいます。そのため、消防組織である火消組が整備されました。大規模火災に対して、身一つで立ち向かっていく火消組の姿は、江戸の町人たちのあこがれでした。

明暦3(1657)年に発生した明暦の大火は、江戸の町の大半を焼き尽くした。諸説あるが死者数は3万とも10万ともされる

この火消組という組織には、大きく分けて2つの系統がありました。1つは、幕府に命じられた武士が担当した“武家火消”。もう1つは、町人が自治活動として行っていた“町火消”です。このうち武家火消は、監督機関である幕府の権力が弱体化していくなかで衰退していき、幕末のころには自然消滅します。

畢竟、明治時代を迎えた際に東京に残っていた消防組織は、民間主体で整備された町火消のみになりました。とくに有名な町火消が、享保3(1718)年に大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)が制度を整備した「いろは四十八組」です。

いろは48組の纏(まとい)を描いた落合芳幾の『新板纏つくし』 出展:国立国会図書館デジタルコレクション httpsdl.ndl.go.jppid1304025 (参照 2024-10-01)

町火消の団員は、消火道具も自腹で用意する無報酬のボランティア。そのため消火能力には限界があり、明治維新を迎えても江戸の火災の数に変動は見られませんでした。むしろ、武家火消がなくなってしまった分増加さえしています。

そこで、東京府(現・東京都)は、明治3(1870)年に消防局を設置。町火消を組織しなおし、行政の管理下で組織だった消火を目指しました。この東京府の動きを見た明治政府は、「これは良い」と明治5(1872)年に内務省で引き取ることにします。「いろは48組」と「本所・深川16組」、計54組あった町火消は、新たに39組の「消防組」という組織へ編成しなおされ、東京を6分割した警察の所轄エリアごとに配置されました。しかし、再編成で組織の数を減らした分、消防組の人足も削減されてしまい、組織的な消火どころか、火災が増加するという結果になってしまいました。

そこで政府は明治7(1874)年、消防組の詰所として「消防屯所」を東京市内25か所へ設置。消防組員を交替制で当直させることにしました。現在まで続く消防士の交替勤務の始まりです。その後、消防組は、内務局に新設された東京警視庁管轄に移され、「安寧課消防掛」という警察官の指揮下で消火活動を行うこととなりました。

火消を行っていた人の職業は、火災時に素早く屋根にも上れるとび職が圧倒的に多く、やんちゃな性格の人も多かったようです。江戸時代には、火消組の喧嘩で死人まで出ています。ですが警察の下部組織たる消防組がそれではいけないということで、消防士としての規律や、服務規程をまとめた「消防章程」が定められました。この規定には役務に応じた報酬も記されており、ただのボランティアだった消防組織が近代的な職業として生まれ変わるきっかけとなりました。もっとも、規定に縛られるのを嫌ったとび職人も多く、結構な人数の消防組員が離脱していったようです。

明治8(1875)年、消防組の所属は「安寧課消防掛」から「東京警視庁第一局消防課」に変更されます。これをきっかけに警察組織のごたごたにまきこまれ、

・明治10(1877)年に「東京警視本署第二課消防掛」
・明治11(1878)年に「東京警視本署第一課消防掛」

と、所属や名称がころころ変えられることとなりました。消防組を引き取り組織化してみたものの、どのように扱っていいのか手をこまねいていた東京の警察の苦労がみてとれます。当時、東京警視庁所属を希望する人は、治安維持を夢見て入庁する人々がほとんどでした。そういった人たちが、全く未知の領域である消火や防災を扱っている消防組員を指揮しろと言われても、よく分からなかったのです。まして、報酬がもらえるようになったと言っても、消防組員はまだ民間人でした。警察官吏のような上の命令に絶対服従という義務もなく、むしろ素人とも言える冗長の指示で動くこともへの不満もたまっていたようです。

そこで政府は明治13(1880)年、「東京警視本署消防本部」という消防だけを専門に行う部署を警察内に設置します。警察官の中でも消防業務についての知識を有した人物が、待遇官吏で東京警視本署消防本部の長となりました。日本初の公設消防機関の誕生です。この「東京警視本署消防本部」が現在の東京消防庁へとつながります。制度が始まったばかりのころは、消防官吏は試験をパスしただけで現場を知らない警察官が多かったようですが、やがて、現場を見た消防組員のなかからも官吏試験を受ける者が現れ、装備の拡充もあって、ようやく本邦の消防組織が機能するようになったのです。

「東京警視本署消防本部」が誕生して半年後の明治14(1881)年1月14日、東京警視庁は警視庁となります。警視庁は、東京の警察業務と消防業務一切合切を行う組織と定められました。消防本部は「警視庁消防本署」と名前を変更し、「警察署」と対をなす存在としてようやく認知されました。

以後、東京の消防は70年間近く、警察機構所属の組織として運営されることになるわけです(現在は地方自治体下で運営されている)。創立当初の消防本署は、東京を6つの所轄に分け、消防分署を6つ設置しました。

・消防第一分署(現在の日本橋消防署)日本橋区坂本町
・消防第二分署(現在の芝消防署)  芝区宮本町
・消防第三分署(現在の麹町消防署) 麹町区麹町
・消防第四分署(現在の本郷消防署) 本郷区元富士町
・消防第五分署(現在の上野消防署) 浅草区猿屋町
・消防第六分署(現在の深川消防署) 深川区八名川町

我々がイメージする消防署がいつから誕生したかというと、この明治14年の6分署誕生からとみてよいでしょう。

大正14年に設立されたばかりの消防部の職員名簿 出展:『警視庁職員録』大正14年11月21日現在, 国立国会図書館デジタルコレクション httpsdl.ndl.go.jppid927679 (参照 2024-09-30)

さて、治安維持を行う警察とは別扱いとなったため、明治17(1887)年から警視庁消防本署は、消火のための最新の蒸気ポンプを導入するようになりました。消防本署は、これら装備を扱える人材を「消防機関士付属」という肩書で、直接雇用しはじめました。民間主体であった消火現場の人間の中に、警視庁所属の人間が混ざるようになっていき、消防士に公務員というイメージがつくようになっていくのもこのころからでしょう。

日本の消防署は、こうして整備された警視庁消防本署のシステムが徐々に地方へ伝播していくことで始まりました。

一段低く見られていた消防の仕事が認められるまで

とはいえこれら消防組織の整備は、あくまで東京だけのことです。地方では、大正時代ごろまで消火活動は民間が行っていました。

常設の消防署は東京と大阪という二大都市圏にあるのみ。まだまだ日本人の、消防や防災に対する認識は甘かったのです。大正8(1919)年、政府は、万が一火事が起こった場合の被害が大きくなる京都市、神戸市、名古屋市、横浜市の4都市に対して、公設消防署の設置を義務付ける「特設消防署規定」という勅令を出していますが、その程度です。

地方でも、消防の仕事の重要性が認知されていったのは、大正12(1923)年に発生した関東大震災と、其の後、消防職員が行っていった防災活動があったからです。

関東大震災ではあちこちから発生した火災の被害も大きく、また、インフラが寸断されたことで、助けられたはずの多くの命も失われました。常設の消防署が設置されていた東京と横浜でさえ、想像を絶する甚大な被害を被ったのです。ならば、消防署のない地方はどうなるか。日本人が、本格的に常設消防署の必要性を痛感した瞬間でした。

写真時報社 編『関東大震災画報 : 写真時報』,写真時報社,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12394686 (参照 2024-10-02)

関東大震災の翌年から、警視庁消防部はさらに大規模な組織改革を行い特に防災機能を充実させようと動きます。

まず、ポンプ車を扱える「消防機関士付属」を、大正13(1913)年から「消防手」と呼称し判任官待遇としました。これにより現場経験のある消防手が明確な公務員となります。実働部隊の民間人である消防組を、災害現場で直接公務員が指揮するようになり、より組織だった消火・救助活動が行えるようになりました。

関東大震災直後に、警視庁のなかからは「消防署長非官庁説」という論が飛び出したことも消防署の活動を変化させるきっかけとなりました。消防の人間は肩書上警察と同格のように扱われているが、実質的には同格ではない。警察の方が各上ではないのか、という意見です。これは現場で犠牲を出しながら人命救助に当たった消防署職員一同をひどく傷つけ、更なる組織改革の原動力となったようです。

そこで当時の消防職員一同が、警察官にはない自分たちの存在価値を政府や市井へ訴えるべく取り組んだのが、出火前の予防業務です。火災報知機設置の呼びかけや、地震の際の火の始末、災害時の避難場所の周知など、今も小学校などで定期的に行われている活動は、関東大震災後から本格的に始まっています。

消防職員たちの地道な活動が、市民からの信頼を醸成していったのです。

昭和時代に入ると国際的な関係の変化もあり、消防署の任務には消火・防災の他に、敵国からの空襲を想定した防空も加えられました。どの都市が爆撃されるかわからない時代となったため、空襲も火災や地震と同じ災害認定されたのです。政府は国防も兼ね全国へ公設消防署の設置を推し進めました。

また関東大震災時に、激甚災害時は消防署員や消防組員だけでは手が足りなくなることを学んだ消防署は、昭和5(1925)年、市民による自衛組織の「防護団」も整備しています。初期の防護団は消防職員が兼務していることも多かったのですが、それだと人員不足解消という本意とそれてしまうため、昭和14(1939)年に完全民間主導の「警防団」に変更。消防署員が現場に駆け付けるまでの初期消火や人命救助、防空は彼らに任せることとなりました。この時、江戸火消の伝統を引き継いだ消防組も、「警防団」に吸収されました。警防団は終戦後、地域の消防を行う「消防団」へと形を変えています。

赤坂消防署の誕生とは?

では、ようやく本題の「赤坂消防署発祥之地」とは何なのかという問いに答えていきたいと思います。

明治39(1906)年、東京の6分署が名称を変更し消防署と呼ばれるようになりました。このうち、現在の青山・赤坂エリアを管轄していたのが、第三消防署です。

前段の通り、関東大震災の翌年である大正13(1924)年から各消防署は組織改革を行いました。

その組織改革の一環として、現在の麹町に消防署を構えていた第三消防署は、第三消防署青山分署を設置しています。この場所が、現在石碑の立っている、青山一丁目駅の直上でした。

改革により消防署の分署も業務も拡大していた時期ですので、この第三消防署青山分署は大正15(1926)年にそのまま赤坂消防署へと改称し、独立します。

つまりこの石碑は、そのものずばり「赤坂消防署」とう名称の消防署が誕生したことを記録する碑なのです

赤坂消防署は地域の消防拠点として昭和30(1955)年までこの地にありましたが、同年に北青山の現在地へ移転。

昭和61(1986)年にこの石碑が立てられた、ということのようです。

ちなみに石碑の上の変わった四角形のオブジェは、火消組が掲げる纏の形を模しています。

碑文には「赤坂消防署は、この地に大正十五年に誕生し、依頼昭和三十年までの間地域と一体となって、協力と和のもとに防災の拠点としてその任務を果した。」と記されている

住所:東京都港区南青山1-2

時間:見学自由

アクセス:東京メトロ半蔵門線・銀座線、都営大江戸線「青山一丁目駅」より徒歩約1分

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