人生は七転び八起き!高橋是清にあやかれる?「高橋是清翁記念公園」
コンパクトながら居心地の良い公園
昼夜問わず車通りが多い、青山通り沿い。赤坂見附駅と青山一丁目駅の間に位置するのが、「高橋是清翁記念公園」です。
青山通りを挟んだ向かいに赤坂御所、すぐ隣には在日カナダ大使館があるため、一見コンパクトな公園に思えてしまいますが、遊具スペースのほか池や小川もあり、日本庭園のように美しく整備された、正に都会のオアシスです。
ここはもともと、公園名にも冠されている高橋是清が晩年に暮らした場所。旧是清邸は、現在東京都小金井市にある「東京江戸たてもの園」に移築されていますが、公園の奥には、主であった高橋是清像が佇み、石灯籠などはいまだに園内に残っています。
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日露戦争の勝利はこの人なしでは成し得なかった!
高橋是清は、その丸々とした柔和な風貌から「ダルマさん」の愛称で親しまれ、日本銀行総裁や第20代内閣総理大臣を務めたことでも知られています。しかし、高橋の評価は幾度も務めた大蔵大臣として、また、日露戦争の軍資金調達を成功させた財政家としての方が高いのではないでしょうか。
1904(明治37)年に日露戦争が勃発すると、当時日本銀行の副総裁であった高橋は、海外での外債交渉を任されます。しかし直前の日清戦争に勝利したとはいえ、アジアの小国である日本が大国ロシアに勝てると想像だにされていなかった当時、諸外国との公債交渉は難航。しかし高橋には、“生まれ持った強運”がありました。アメリカで偶然知り合ったユダヤ人銀行家、ジェイコブ・シフから多額の出資をこぎつけたのです。最終的に高橋は、日露戦争の軍事費資金のおそよ40%、国債や税収入を上回るほどの金額を調達に成功しています。
奴隷から内閣総理大臣まで経験!高橋是清の数奇な人生とは?
“生まれ持った強運”と表現しましたが、高橋が持ち合わせていたのは、もちろん運だけではありません。運と前向きな思考を掛け合わせ、裏表がなく無欲、人が良く憎まれることがない性格で、信じられないような困難を乗り越えたのが、高橋是清です。
たとえば、14歳の少年時代にアメリカに留学した高橋。まだろくに英語も理解できない状況下で、ある書類にサインをさせられてしまいます。それはなんと奴隷契約書。奴隷として売られ、重労働を課されたことを「厳しい勉強である」と解釈し、自分が奴隷契約を結ばされたという事実を知ってからも、腐ることなく英語の勉強に精を出しました。この時の語学力が、前述した日露戦争の資金調達時に発揮されたのです。
また、36歳となった1893(明治26)年、特許局長だった高橋は、日本が海外の鉱山を所有するという夢を託され、特許局を辞任しペルーの銀山開発の仕事に従事します。高橋は現地で日本人鉱山労働者の対応をはじめさまざまな困難に見舞われ、さらになんと銀山は掘り尽くされた廃坑であることが判明。多額の債務を負ってしまいます。
しかし後年、「結果は一世の嘲笑の的」と表現しつつも、「明治時代における日本の対外事業の先駆け」「時はすべてを解決する」「手元に当時の資料が残っているので、後世のために真相を伝えておこう」と記しています。また、日本の経済成長のためには国内に資本の源泉を蓄え、安価に資本調達ができるようにする必要があるという、自身の考えを一層強固にしたと言われています。
鉱山開発ですべてを失ってしまった高橋ですが、その人格に変わりはありません。どん底の日々を過ごしていた高橋に手を差し伸べたのは、日本銀行総裁であった川田小一郎でした。川田に声をかけられた高橋は、日本銀行本館の建築事務主任として入行。財政家としての手腕を発揮し、副総裁として日露戦争へ貢献、そして日銀総裁から大蔵大臣に、最終的には内閣総理大臣にまで上り詰めたのです。
現状打破の手助けにもなる……かも?
高橋の波乱万丈の人生からは、トラブルに見舞われた場合も物事をポジティブに捉える大切さ、何事にも誠実に取り組み、敵を作らない姿勢がどれだけ重要かが伝わります。
正に、起き上がりこぼしを源流に持つ「ダルマ」と同じ愛称を持ち、七転び八起きの人生をおくりました。
もし大きな壁に直面している場合、不撓不屈の高橋是清にあやかりに、高橋是清翁記念公園に足を運んでみるのはいかがでしょうか。自然あふれる公園内に柔和な顔で佇む「ダルマさん」こと高橋是清像に相談してみると、何かいい打開策が思い浮かぶかもしれませんよ。
【高橋是清翁記念公園】
住所:東京都港区赤坂7-3-39