【乃木神社】人格者と名高い乃木希典は子ども相手でも紳士的だった
日露戦争の英雄、乃木希典夫妻を祀る
乃木坂の途中にある「乃木神社」は、その名の通り、明治の軍人である陸軍大将・乃木希典とその妻・静子を祀っています。最近は、アイドルグループ「乃木坂46」のメンバーが成人式を行う神社という印象もあるかもしれません。
日露戦争の英雄、乃木希典とは
乃木は、嘉永2(1849)年に現在の六本木にて生まれました。幼少の頃は体が弱かったとのことですが、22歳という若さで大日本帝国陸軍少佐に大抜擢されます。日本最後の内戦・西南戦争に従軍しますが、西郷隆盛を中心とした薩軍に連隊旗(いわゆる軍旗)を奪われてしまい、生涯そのことを悔やんでいたと言われています。
明治29(1896)年には台湾総督として台湾に赴任、そして明治37(1904)年、1980年に『二百三高地』として映画化された、日露戦争の旅順攻囲戦に、日本軍第3軍司令官・大将として参加。自身の息子をはじめ多くの犠牲が出ましたが、難攻不落と言われたロシア帝国の旅順要塞を陥落させました。その功績のみならず、降伏した敵兵への紳士的な振る舞いは世界的に評価されています。
その後、乃木が敬愛する明治天皇の勅令により学習院の初代院長を務め、後の昭和天皇の養育などにも携わりましたが、明治45(1912)年7月に明治天皇が崩御し大喪の礼が行われた9月13日、乃木とその妻静子は自宅で自刃。その死は日本から海を越えて世界中に伝えられ、青山で行われた葬儀には多くの一般市民が駆け付けたと言われています。
日露戦争の英雄であり、人格者でもあった乃木大将を慕う人々は多く、大正12(1923)年、乃木邸敷地内に乃木神社が創建され、今では日本各地に乃木神社が創建されています。
世界から賞賛された人格者
乃木希典が国内外問わず多くの人から慕われたのは、清廉潔白で紳士的な卓越したその人格ゆえ。陸軍時代は、大将であるにも関わらず厳しい戦地では部下と同じ環境・同じ食事を取り、学習院院長時代は生徒たちと寝食を共にするなど、理想のリーダー像でもありました。
前述した日露戦争でも、ロシア軍総司令官・ステッセルが敗戦の責任を取らされ死罪を告げられたと知ると、ステッセルの戦いぶりを手紙にしたため、ロシア皇帝に処刑を取りやめるよう訴えています。
乃木大将は、誰に対しても権威主義的な態度を取らず、戦中でも外国人記者に対して真摯に対応していたそうです。
乃木神社の隣に残る、旧乃木邸と馬舎
乃木神社に隣接する乃木公園には、乃木自身が設計にも関わった和洋折衷の旧乃木邸が残されています。屋内の一般公開は限られた日のみですが、邸宅をぐるりと囲む通路があるので、モダンな居間などを窓越しに見学することができます。
そして旧乃木邸の向かいには立派な馬舎も。馬を大切にしていた乃木を表すかのように、レンガ造りの馬舎は「母屋より立派」とも言われ、今でも愛馬「壽号(すごう)」と「璞号(あらたまごう)」の名前が掲げられています。
子どもにも紳士的だった乃木希典大将
余談ではありますが、明治生まれの私の曾祖母は、かつて乃木邸のすぐ裏に住んでいました。白馬(壽号)に跨って家を出られる乃木大将を姉と一緒にお見送りすることもあったようで、手を振ると、馬上からしっかり敬礼して応えてくれたそう。その姿は本当にカッコよかったと晩年まで覚えていたほどなので、よほど印象的だったのでしょう。
旧乃木邸には、乃木大将と辻占売りの少年の銅像もあります。
乃木が陸軍少将時代、金沢で辻占売りで家計を支える少年に感銘を受け、少年に弐円を手渡し励ましました。少年は乃木からの恩を忘れず、努力を重ねて金箔業で成功したという逸話を元に造立された彫像です。
世界からその人柄を称えられた乃木希典大将は、子どもにも紳士的に振る舞う、人徳溢れる英雄なのです。
【乃木神社】
住所:東京都港区赤坂8-11-27
時間:6:00~17:00
【旧乃木邸】
住所:東京都港区赤坂8-11-32
時間:9:00~16:00
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