【高輪大木戸】……江戸の南端を定めた遺構
どこからどこまで江戸か知っていますか?
慶長6(1601)年、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、全国支配の一環として街道の整備を始めました。
街道沿いに旅人のための宿場を設け、また往来する人物は街道に設けた関所で取り締まりを行うようにしました。
特に江戸から東西南北へ伸びる5つの主要道「東海道」、「中山道」、「日光街道」、「奥州街道」、「甲州街道」は、五街道と呼ばれ重要視されました。
慶長9年(1604)年には、江戸の日本橋が、これら5本の街道の起点として定めています。江戸日本橋が、法律上日本の街道の中心と定められたのです。
五街道の中でも特に人の往来が激しかったのが、太平洋沿いに江戸と畿内を結んでいた東海道です。
東海道に設けられた宿場町は東海道五十三次と呼ばれ観光地化していき、浮世絵や和歌、俳句の題材にしばしば選ばれるようになりました。
ところで、江戸日本橋から出発して東海道を歩くと、どこで江戸を出たと判定されるかご存じでしょうか?
その基準となった建物が、港区高輪の「高輪大木戸」なんです。
名前の通り都市の門だった高輪大木戸
最近は見かけなくなりましたが、かつては庭と道路分ける塀や囲いに、正門とは別に木で作った開き戸の門が設置されていました。
いわゆる木戸です。
江戸時代には、個人宅と通りを隔てる木戸だけでなく、町と町を分ける「町木戸」もあり防犯に一役買っていたそうです。
江戸とそれ以外の地域を分け、町を守るために敷設された木戸が大木戸でした。大木戸より日本橋側が江戸府内。大木戸より外が江戸郊外と認識されます。
大木戸は高輪以外にも、四谷や板橋にも設置されています。
さて、高輪大木戸ですが、江戸時代初期は防犯のため柵門があり、明六ツ、暮六ツの時間に開閉して人の出入りを制限していました。
ところが、平和な時代が続いたことで後に柵門は必要ないと廃止され、石垣のみが残されます。
明治元(1869)年には西側の石垣も取り払われてしまい。現在国道15号線(第一京浜)沿いに残っているのは、東側の石垣のみです。
ちなみに、伊能忠敬が日本測量を開始した際の起点は、日本橋ではなく、この高輪大木戸だったそうです。