港区の坂・「本当の芋洗坂と饂飩坂はいったいどこ?」
はっきりしない芋洗い坂と饂飩坂の解説文
六本木交差点より少し南。路地に入ったところに「饂飩坂」という坂があります。港区のHPの坂道解説よると、天明年間末(1788)頃まで松屋伊兵衛といううどん屋があったことが名前の由来とされています。さて、同HPを見ると「昔の芋洗坂とまちがうことがある」の一文が。
芋洗坂とは、饂飩坂と交差する一本隣の坂道。
こちらはこちらで港区の説明文を読んでみると、「正しくは麻布警察署へ上る道をいったが、六本木交差点への道が明治以降できてこちらをいう人が多くなった。芋問屋があったからという。」との解説が。
え。じゃあ、この芋洗坂は、間違った芋洗坂ってことなの?
改めて、どれが正しい芋洗坂だったのか調べなおしてみることにしました。
江戸時代からころころ入れ替わる坂名
昔のことですので、江戸時代の記録を見てみましょう。まずは、享保17(1732)年に出版された『江戸砂子温故名蹟誌』の第6巻に記載された芋洗坂の記録です。
さっと重要なところを翻訳します。
芋洗坂……日ケ窪より六本木へ上る。坂下に稲荷の社がある。
日ケ窪というのは現在の六本木六丁目あたりの旧地名ですので、この本では、現在の芋洗坂と同じ坂道を指し示していることが分かります。ちなみに続きを読むと、毎年秋になると近所の百姓が毎日市を開いて芋を売っていたことが名前の由来とされており、港区の解説と異なっています。
どうも坂名の由来も混乱しているようです。
続いて、江戸の町に暮らす人のためのタウンページのような役割をしたハンドブック『万世江戸町鑑』に掲載された芋洗坂の記録です。本書の発行は安政3(1856)年ですので、江戸砂子温故名蹟誌から100年以上現代に近い本となります。
こちらの本では
芋洗い坂…六本木より“しょうしんち”門前、組やしきの下り口
となっています。“しょうしんち”は、“正信寺”のことです。このお寺はもともと芝の増上寺の境内にありましたが、その後六本木へ移転。現在はさらに、文京区へ移転し現存しています。六本木時代は、現在の六本木交差点の南西部にありました。
問題は、正信寺門前に続く、組屋敷の下り口という一文です。
正信寺の西へ上っていく通りは、かつて書院番という任についていた与力たちの組屋敷が並んでいました。なので、組屋敷の下り口とは、ここを指し示していると思われます。現在の地図で言うと、ファミリーマート六本木駅店に接した通りになるはずで、芋洗坂の位置がまるで異なりますし、港区の看板に書かれた麻布警察署へ続く坂道とも異なります。
一方『万世江戸町鑑』には芋洗坂の横に「うどん坂」との表記もあります。こちらは、六本木より日ケ窪へ下る通りとされており、明らかに、現在の芋洗坂です!
文字記録だけでは混乱がさらに広がってしまいそうですので、江戸時代の地図に頼ることにします。
まず、嘉永2年(1849)から文久3年(1863)までの14年間に32種板行された尾張屋版の『江戸切絵図』です。
この地図では、現在の芋洗坂と同じ道を芋洗坂としています。一方、饂飩坂の表記は見当たらず、正信寺から組屋敷が集まる坂道にも名前がついていません。
一方、嘉永2(1849)年に発行された近江屋版の『江戸切絵図』です。
こちらは、『万世江戸町鑑』と同じ正信寺から組屋敷通りを抜ける道を芋洗坂とする説を採用しています。相変わらず饂飩坂は行方不明です……。
実は、この二枚の地図はほぼ同時期に発行され流通した地図。これはもう、江戸時代を通して、芋洗坂と饂飩坂はどちらがどちらかはっきりしていなかったと言ってよいのではないでしょうか。
坂道愛好家の元祖がオリジナルの芋洗坂の位置を推定!
と、色々調べていたところ面白い本に行きつきました。
1970年に発行された『江戸の坂 東京の坂』と、その続編にあたる『続 江戸の坂 東京の坂』です。現在は、ちくま学芸文庫より『江戸の坂 東京の坂(全)』のタイトルで2冊をまとめた文庫版が出ています。
著者は、横関英一さん。坂道研究というジャンルを確立し、あのタモリさんが所属する日本坂道学会などにも多大な影響を与えた名著です。
この本のなかでも、両坂の地名入れ替わりについて語られています。さすが、坂道研究の開祖。ここにあげた資料の他、数々の江戸時代の記録を引用し、江戸時代を通じて両坂の名前が一定でなかったことを証明しています。
そのうえで、横関氏は「現在の芋洗坂が、本来の芋洗坂で、正信寺から組屋敷を抜ける坂道が饂飩坂であろう」と結論を出しています。
氏が根拠としている理由は2つ。
①江戸幕府が編纂した公式記録「御府内備考」が、そうしているから
②芋洗という言葉の意味から考えて
です。
(因みに余談となりますが、この本のお陰で、港区の看板に出ている芋問屋説を記載している本が『江戸図解集覧』という本であることがわかりました!)
実は、芋問屋や芋の有無に関係なく日本全国には芋洗や芋という地名があるのだそうです。
京都の一口(いもあらい)、奈良の芋洗池、都内でも小石川にかつて芋洗という地名があったようです。
これらの地名にはひとつ共通点がありました。それは疱瘡(天然痘)神を祀っていた場所だったということです。
疱瘡(天然痘)は、1980年に、WHOから根絶宣言が出た流行り病です。伝染力が非常に強く死に至る疫病として恐れられていましたが、種痘という治療法が確立されるまでは、できた瘡蓋を水で洗って神に祈るしかありませんでした。
この疱瘡の快癒を司る疱瘡神は、弁財天と同一視されることの多かった神様です。弁財天を祀る社には池がつきもので、神聖な水で瘡蓋を洗っていたからだろうと横関氏は語っています。疱瘡で生じた発疹を「芋(忌み)」、患部の瘡蓋を水で洗う行為を「芋洗(忌み洗い)」と言ったのではないかと氏は推測します。
そして氏は、寛延3(1749)年の古地図から、現在の芋洗坂沿いに弁財天があったことを発見したのです。
このことから横関氏は、「芋洗坂の元々の位置は、芋洗いの弁財天があった現在の坂」の位置であり、「饂飩坂は、組屋敷から正信寺へ下り芋洗坂と交差する道」を指していたのだろうとしています。
なお、江戸時代の絵地図を見る限り、現在の饂飩坂の看板がある上り坂は江戸時代に道がありません。明治以降に新たに道を通した際に、本来の饂飩坂からまっすぐつながる上り坂も饂飩坂として一体化したのかもしれません。
天然痘の根絶によって、疱瘡神の社はその役割を終え、徐々に忘れられていっています。芋洗という地名も、次々別の言葉に置き換えられていっているようです。
もちろん、この説は横関氏の推測であり、確定情報ではありません。
ですが、会社のブログ用にと近場の坂道の疑問について調べたら、人類の医学の進歩や言葉の盛衰について考えさせられることとなった、そんなリサーチとなりました。
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