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歴史ミステリー①「新橋」「汐留」駅名の謎~日本鉄道の起点・旧新橋停車場を探る!~

2023年10月11日

オフィス街に佇む、洋館とホームの正体は?

新橋・汐留のオフィス街の中に佇む、瀟洒な西洋建築。石造りの建物の奥に伸びるのは、ひときわ目を惹く白いプラットフォーム。館内には貴重な展示物とパネルが並び、歴史のロマンを味わいながら、穏やかなひと時を過ごせます。

静謐な雰囲気を醸し出すこの建物は、「旧新橋停車場」。日本初の鉄道ターミナル、開業当初の「新橋駅」の外観を、当時と同じ位置に可能な限り忠実に再現した復元駅舎なのです。

ここを訪れたきっかけは、「新橋駅」と「汐留駅」の歴史でした。地名の由来をたどるうち、開業当初の「新橋駅」は「汐留駅」に改名しており、現在の「新橋駅」はかつて「烏森駅」だった、という事実に突き当たったのです。この3駅間での駅名シャッフルは、どうして起こったのでしょう?

今回は、特別に学芸員の方にお話を伺いながら、「新橋駅」の歴史の謎と、「旧新橋停車場」館内の様子に迫ってみました。

(※館内は特別に許可を得て撮影しています)

史跡の上に建つ駅舎――貴重な遺跡を保護するために

まずは簡単に、「新橋停車場」の歴史を紹介します。

1872年、日本最初の鉄道ターミナル駅として開業した「新橋駅」は、アメリカ人のR・P・ブリジェンス氏が設計を担当しました。レンガ造りならまだしも、石張りの建物は当時ではまだ珍しかったそうで、文明開化を象徴する建物の1つでもありました。

しかし、1923年に起きた関東大震災により、残念ながらこの駅舎は焼失してしまいます(後述しますが、この時の駅名は「汐留駅」に変わっていました)。1934年からは、「汐留駅」の改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の施設も解体されてしまいます。

1986年、「汐留駅」の廃止後、1991年から汐留地区の再開発が進められました。文化財発掘調査を行う過程で、旧新橋停車場駅舎とプラットホーム、構内施設の礎石が発掘されたことで、再び新橋停車場に脚光が当たります。

1996年、駅舎とプラットホームの一部が国指定の史跡に指定。それらの史跡を保護しつつ、かつ鉄道が発祥した往時をしのぶため、開業当時の駅舎を再建されることになりました。施設丸ごとで史跡を保護しながら、来場者に歴史の一かけらを語り継いでいるのです。

1990年代は、現在でいう3Dプリンター技術なども発達しておらず、復元にあたっては、現存するわずかな画像や遺跡から、綿密な分析が行われたそうです。ローテクの文系人間としては、関係者の尽力に頭が下がります……。

歴史ミステリーを解明せよ!「新橋」「汐留」駅名問題

新橋停車場駅の歴史を語る上で、ややこしいのは“駅名変遷問題”ではないでしょうか。実は現在、JRなどの在来線が多数乗り入れている「新橋駅」と、開業当初の「新橋駅」は、成り立ちがまったく異なります。

開業当初の新橋駅は、神奈川県横浜駅との間を往復する、東京の玄関口でした。今でいう、東京駅のような役割を果たしていたそうです。

それが1914年、東京駅の開業により、新橋は旅客営業を廃止し、貨物専用駅へと用途を変換します。この時、駅名は「汐留」と改称されました。

あわせて、山手線の駅名だった「烏森駅」が「新橋駅」に改称され、こちらが現在の「新橋駅」になります。新橋駅の出口の1つに「烏森口」があるのは、もとの「烏森駅」に由来していたのですね。

余談ですが、「汐留駅」はいったんは廃止されますが、2002年に、「都営大江戸線」「ゆりかもめ線」の駅名として、めでたく復活を遂げます……。

そんな3駅の駅名がシャッフルされるという珍しい現象が起きましたが、ここで1つ疑問が湧き上がりました。あんなにも栄えた新橋駅から、政府はなぜ、旅客ターミナル機能を移したのでしょうか?

なぜ「新橋駅」の旅客ターミナル機能は移されたのか?

理由を「旧新橋停車場」学芸員の方に伺ってみたところ、貴重な資料を見せていただくことができ、真相が解明されました。

もともと、開業当初の新橋駅は、江戸時代の旧大名屋敷・脇坂家の敷地を転用したものでした。旅客ターミナルだけでなく、鉄道業務の中枢拠点としての役割を担うことになった新橋駅でしたが、旅客・貨物の輸送量は年々増加の一途をたどり、駅の構内は機関車や貨車の製造を行う設備など、関係施設で埋め尽くされてしまいました。

一極集中しすぎてしまった新橋駅の施設を、各地に分散させよう――そんな計画が進められたのです。

そして、旅客施設は新たに建設される東京駅を拠点とし、新橋駅は貨物施設を集中させる貨物専用駅とすることに。決して、新橋駅が冷遇されたわけではなかったのですね。

「烏森駅」として開業した地で「新橋駅」は再スタートを切りますが、その後の躍進ぶりは、首都圏の皆様のよく知るところ。各路線が乗り入れる、重要な乗換駅の1つになっています。

ここに注目! 「旧新橋停車場」の見どころ

「旧新橋停車場」は、なんと無料で入館できます。かつてはレストランもありましたが、新型コロナウイルスの影響により閉店し、現在は改装中。新たな活用方法を予定しているそうです。周囲はオフィス街のため、仕事の待ち時間の間に立ち寄られる、鉄道ファンの方も多いとか。

そんな旧新橋停車場で、訪れたらぜひ注目してほしいポイントをいくつか紹介いたします。

ガラス床越しに遺構と対面

1Fの常設展示コーナーでは、ガラス床越しに、開業当初の駅舎の基礎部分を見れます。

ゴツゴツした石積みは、迫力満点。ガラス越しではありますが、質感が歴史を物語っていますね。

のぞき込んでも高低差はさほどなく、高所恐怖症の人でも怖くありませんのでご安心ください。

ちなみに、たまに駅舎ではなく、ホームの遺構だと勘違いする来場者もいるそうなので、注意しましょう(極度の方向音痴の筆者も、当初間違えました……)。

2Fの企画展示は期間限定

2Fでは、「百年前の修学旅行」「駅弁むかし物語」など、さまざまなテーマで期間限定の企画展示を行っています。筆者が訪れた時のテーマは、「鉄道と制服」。アクリルケースの中に、過去の貴重な制服がきれいな状態で展示されていました。

入口の傍には「映像の記憶」コーナーがあり、夢中で見入る方もいらっしゃいます。

鉄道開業の経緯や、かつての新橋停車場の映像を、長椅子に腰掛けながらゆっくり堪能できます。

0哩(ゼロマイル)標識

日本の鉄道を敷く際、測量の起点となる杭が打ち込まれた記念すべき場所が、0哩(ゼロマイル)標識です。1936年に復元された標識は、旧新橋停車場の再現時に約3mの軌道とともにプラットホームの奥の方に再現されています。

使用されているレールは、イギリスから輸入された明治期のもの。細部にまでこだわって再現されています。

実は功績大だった!? ペリー

日本が鎖国を解いたきっかけというと、アメリカ使節団のペリーが黒船を率いて現れ、強引に開国を迫った……というエピソードが印象に残っている人も多いのではないでしょうか。

ですが、こと鉄道においては、ペリーは重要な実績を日本に残してくれた人物なのです。

日本に鉄道(小型蒸気機関車)を持ち込み紹介したのは、彼ら使節団でした。1853年にはロシアのプーチャーチンが長崎に持ち込み、翌1954年には2度目に来航したペリーが、小型蒸気機関車を将軍に献上したのです。

彼らが日本にこなかったら、鉄道文化もまた違ったことになっていたのかもしれません。

「0マイルは鉄道発祥の地。ぜひ遺跡や展示物から、歴史に想いを馳せていただければ」――学芸員の方の言葉通り、束の間でも明治時代にタイムトリップしたような、不思議な感覚を味わうことができました。

都営汐留駅より徒歩3分、各路線の新橋駅から徒歩5分以内と、アクセスも抜群の同施設。鉄道が好きな方、都内の喧騒から離れてゆっくりと歴史を感じたい方、ぜひお気軽に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

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旧新橋停車場

住所:東京都港区東新橋1-5-3
時間:10:00~17:00(※入館は閉館15分前まで)
休館日:毎週月曜(ただし、祝祭日の場合は開館。翌火曜日が休館)、年末年始、展示替え期間中、設備点検時
※開館時間や休館日は、天候等の影響により変更になる場合がございます。
入館料:無料
アクセス:JR新橋駅「銀座口」より徒歩5分、都営大江戸線汐留駅「新橋駅方面改札」より徒歩3分、東京メトロ銀座線新橋駅「2番出口」より徒歩3分、都営浅草線新橋駅「JR新橋駅・汐留方面改札」より徒歩3分、新交通ゆりかもめ新橋駅より徒歩3分

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