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【北青山三丁目地区まちづくりプロジェクト】まちへ集まってくれた人が未来まで青山を愛してくれるように

2025年1月8日

リニューアルラッシュに沸く青山通り。なかでも特に注目されているのが、かつての青山北町アパートという都営住宅を建て替えて、大規模な再開発を行う「北青山三丁目地区まちづくりプロジェク」です。

プロジェクトのイメージパース(画像提供:UR都市機構)

2020年5月、地区内に「ののあおやま民活棟」という複合施設がオープンし、青山エリアの新たなランドマークタワーとなっています。これに加えて、先日よりついに青山通り沿いに面した残り半分の敷地の再開発が始まりました。現在は元々あったビルの取り壊し作業が行われています。

現在取り壊し作業が始まった北半分の街区の再開発を施行するのは、独立行政法人都市再生機構(以下、UR都市機構)。ということで、UR都市機構都心業務部北青山都市再生事務所の伊藤次郎さんと、川村輔さんに本プロジェクトの概要について、お話を伺ってきました。

実は青山通りと縁が深かったUR都市機構

「北青山三丁目地区まちづくりプロジェクト」は、ののあおやま民活棟が建っている区域は東京建物株式会社三井不動産株式会社三井不動産レジデンシャル株式会社といった民間ディベロッパーが、その北側の区域はUR都市機構が事業者となり進めているプロジェクトです。

「南側はすべて東京都の所有する土地でしたが、北側は、東京都、港区、法人、個人といった属性が大きく異なる地権者でしたので、中立性・公平性があり、青山の地と古くから結びつきのあるUR都市機構が事業を実施することになりました」

と、伊藤さん。それはいったいどういうことなのでしょう。詳しく聞いたところ、UR都市機構さんと青山との深いつながりを知ることができました

話は今から約60年前まで遡ります。

1964年に開催が決まった東京オリンピックに向け、東京都内では大規模な都市開発が行われました。そのなかで、もともとあった国道246号線を拡幅し、馬事公苑、駒沢から代々木選手村、国立競技場を繋ぐ幹線道路として使用する計画が持ち上がりました。この計画により道幅は22mから40mに広がることとなり、この頃「青山通り」という名称も生まれます。

青山通りは小さな商店が軒を連ねる商店街でした。しかし、この拡幅工事により通りに面した店の多くは立ち退きを強いられることとなりました。そんな時、地元商店の方々が立ち上がります。商店同士で結束し、拡幅後の道路に面した所に共同でビルを建てて商売を継続しようと考えました。こうして誕生したのが、現在UR都市機構が取り壊し工事を行っている、11階建ての「第一青山ビル」でした。

「現在は都市再開発法という法律に基づき、地元の方々の権利や公共の福祉に配慮しながら再開発は行われますが、そのような法律はまだ存在していない時代のことですので、このような取り組みは斬新だったと思います」

と伊藤さんは語ります。地元商店街の方々は、ビルを建てるにあたり、戦後の住宅不足問題を解消するために設立された特殊法人“日本住宅公団”と協力するという選択をとりました。「第一青山ビル」の4F~11Fには公団の賃貸住宅がつくられ、アクセスの良さや下階の店舗ですぐ買い物ができる利便性から、高い人気を博していたそうです。

この日本住宅公団は、UR都市機構の前身です。青山通り周辺には、第一青山ビルのように日本住宅公団と地元の地権者が共同して建設したビルが計4棟あり、地元地権者の方々との間に深い絆ができ上っていたというわけです。

「青山まちづくり協議会」の誕生

「第一青山ビル」が建っていた土地には、元々中井診療所という産院がありました。院長であった中井卓次郎氏は、拡幅工事の際に地権者側の代表として、地元住民の説得やご自身の診療所を移築し、都営団地の集会所として提供することまで行っています。

こうして、青山の街の移り変わりを連綿と見つめてきた北青山三丁目のビル群でしたが、建物の老朽化という物理的な問題には抗うことができませんでした。中井診療所(現在は閉院)の院長でもあり、「第一青山ビル」の維持管理や街づくりの企画を行う『市街地開発株式会社』の代表取締役社長でもある中井 暲典氏は、卓次郎氏のご子息。戦前から青山の地で暮らし育ってきたため、人一倍青山への想いも強い方です。

古くなった建物を建て替えて再開発を行うにあたり、中井氏は、父がかつて行ったような地元の声を活かした街づくりを行いたいと考えました。現在青山という地名には高級なイメージが定着していますが、観光客や買い物客を呼び込むだけの街ではなく、人が中心の街へと再生させたい。こうして、中井氏が会長を務める「青山まちづくり協議会」という団体が2002年に発足しました。

協議会では、地元住民の方々に対して希望する街の将来像についてのアンケートを実施したり、専門家を招いて新たな街づくり構想を探るための公聴会を行ったり、行政との連携手法を策定したりと活動を開始。それらを基に街づくり提案書を作成し、港区に提出し続けました。こうした努力が実り、ついに青山まちづくり協議会は国土交通省における街づくり調査にかかわる委託事業を受託するに至りました。

また、北青山三丁目地区まちづくりプロジェクトを通じては、市街地開発株式会社や民活棟の事業者、UR都市機構により、青山エリアでエリアマネジメント活動を行う「一般社団法人まちづくりののあおやま」が設立され、中井氏はその代表理事も務めています。

「北青山三丁目地区まちづくりプロジェクトの根幹には、あくまで地元の方々の想いがあるのです。我々は、その想いを形にするお手伝いをしています。このプロジェクトにむけて、中井さんらが地元の想いを集約して、青山まちづくり協議会や、一般社団法人ののあおやまの活動を通じてURや民間ディベロッパーに共有していただけるからこそ、本来立場の異なる事業者が、一つのビジョンに向かって手を取り合って統一感のある開発を行うことができるのです」

と、伊藤さんは本プロジェクトの裏側を教えてくださいました。ちなみに、青山まちづくり協議会が集めてきた、地元からの開発課題というのはどのようなものがあったのでしょうか。

「まず、緑地の不足というのは地域課題として挙がっていました。近くには明治神宮や神宮外苑、青山霊園もあるのですが、日常の憩いの場となるような身近なオープンスペースや緑が案外少ない。そのため、ののあおやま民活棟の街区には、照葉樹林帯が作られましたが、この樹林帯は、現在URが再開発事業を行っている北側の区域にもつながってより広大な緑の空間となる予定です。また、青山エリアは従来から、ターミナル駅前の繁華街とはまた少し趣の異なった、気品あるにぎわいが志向されてきました。本再開発事業でも、このような歴史を継承するとともに、青山エリアに多いクリエイティブな人材が集い、文化・流行の発信拠点となるような、地域に開かれた低層部空間を創出することを開発のコンセプトにしています。」

ののあおやま民活棟に沿うように広がる樹林帯。中央にはせせらぎも流れる

北青山三丁目地区まちづくりプロジェクトの開発予定地は、個人、法人の土地と、区有地、都有地が複雑に絡み合っていたうえ、ディベロッパーも複数に分かれていました。そのため、通常の再開発ならディベロッパーごとに異なるコンセプトの建物を林立させてしまいそうですが、その裏で青山まちづくり協議会という地元有志の手による団体が、活躍していたんですね。

「私はこの春からこの北青山事務所に配属されたのですが、青山に暮らす人々は、とにかく街に対する思いが強いと感じています。一見するとデザイナーやクリエイターといった方が多く、おしゃれで都会的な街だなという印象でした。ただ、身を置いてみると昔からの畳屋さんや文房具屋さんがあったり、夜な夜な地元の人が集う酒場があったりと、下町情緒も残っていることに気が付きます。本当に面白い街なんですよ」

と川村さんは、青山の印象について語ってくださいました。

では、どのようなコンセプトで北青山三丁目地区まちづくりプロジェクトの街づくりは行われているのでしょうか?そう聞くと川村さんはにっこりとこう答えてくださいました。

「それを語るのには、我々よりふさわしい方がいらっしゃるのでご紹介します」

市街地開発株式会社水野成美さま

後日、川村さんに連れられて、私はののあおやま民活棟の一階を訪れていました。第一青山ビルなどの経営コンサルタント・管理メンテナンスを行い、青山通りの開発事業を見続けてきた、「市街地開発株式会社」の専務取締役兼「株式会社たりたり」の代表取締役・水野成美さんにお会いするためです。

お話を聞かせてくださった水野成美さん

挨拶が終わると水野さんはさっそく、青山についての思い出をお話してくださいました。

「私自身は中野区生まれです。ですが、青山で生まれ育った叔父が市街地開発株式会社を創業し、父がその後経営していた関係もあり、青山に深く関わることになりました」

水野さんの叔父さんは大塚雄司さんとおっしゃいます。1990年に第2次海部改造内閣では建設大臣を務めた政治家です。ですが、青山通りが作られる1962年当時は、まだ先述の日本住宅公団の社員でした。大塚氏は中井卓次郎氏らとともに、拡幅工事で立ち退きの憂き目にあわれる地元の人たちを集めて、日本住宅公団の力でまちづくりのきっかけになることを行おうと決心されました。

「市街地再開発事業が一般的ではなかった時代に、新しい権利変換方式を導入した叔父は、都市部への人口集中や、モータリゼーションなど都市部の課題を解決する手段として、地権者法人という新しい方式を考えました。地権者の方々で第一青山ビル株式会社という法人を作って建物の低層部を所有し、店舗スペースとしてそれぞれ立ち退きを余儀なくされた地権者の方々が営業を続けられるようにし、上層部は公団の所有する住宅とすることにしました。この時、大通りに面した土地と、裏路地にあった店や、路面に面する店舗、2階より上に入る店舗では地価差が生じてしまいます。そこで、大塚式換地方式を用いて課題を解決しました。賃貸で上がった売上を、従来の地権者に分配することとしたのです」

水野さんによると、元来青山という町は、人が住む庶民的な町で、生活必需品を扱う商店が軒を連ねていたそうです。24時間営業のスーパーマーケット、ユアーズの出店やVAN Jacket本社の移転等もあり、現在の青山の雰囲気が醸成されてきたのではないか、と水野さんはおっしゃいます。VAN Jacketといえばアイビールックのファッションを日本に広めたことで知られていますが、その本社は、1964年に今の青山三丁目交差点の角に移転してきました。

「昭和30年代に青山通りの拡幅により道幅が広くなったので、通りの向こうを歩く人の目線が2階の店舗にまで向かうんです。まだ高層ビルもほとんどなかった時代ですから路面店舗だけではない商業施設の可能性を感じるきっかけになったのではないでしょうか」

VAN-Jacketの石津氏は、青山をアメリカのようなファッションタウンにしようと考え、“VAN TOWN 青山”という構想を立ち上げ、街のブランディングを始めました。親和性のある様々なお店の誘致活動も積極的に行い、ご自身でもVAN99ホールといった劇場や、家具・雑貨を扱うORANGE HOUSEという店をオープンさせたりしました。街が活気づくと、もともとあったお店にも人が集まります。こうして青山という街に、おしゃれで文化的な街という空気が醸成されていったのだそうです。

水野さんは、叔父である大塚雄司氏の秘書として13年間働いたのち、叔父が設立にかかわった市街地開発株式会社の役員として招聘されました。改めて青山という土地へ戻ってきたタイミングで、北青山三丁目地区まちづくりプロジェクトが始まったのだそうです。

「1964年開催の東京オリンピックを機に始まった当時の再開発事業では、青山に暮らす人たち、働く人たちが主役になって、建物を作り、テナントさんと一緒に街の文化を創っていくことができました。これからは街を開発する開発業者さんとも協力し、青山らしさをどう残していくか、地域の求める街づくりはどのようなことかをまとめて伝える必要があると考えました。こうしたことを市街地開発株式会社の代表である中井と話していく中で、再開発を含めた青山の街づくりに対する地元の意見を集約する組織として、青山まちづくり協議会ができあがったのです」

街の管理会社として青山を好きになってもらうマネジメントを

水野さんは現在『株式会社たりたり』という会社の代表取締役もされています。こちらの会社は、北青山三丁目地区まちづくりプロジェクトで再開発されるエリア全体のエリアマネジメントを担当されつつ、ののあおやまの1Fで、『まちあいとおみせ』という店舗も兼ねた地域交流拠点を運営されています。

エリアマネジメントはビル管理業務と似たようなものと水野さんはおっしゃいます。

「ビルの管理は、ビルの中のテナントさんのご要望とビルオーナーのご要望を聞きながら、様々な課題を解決することでしょ。エリアマネジメントはそれがビルの外側のエリアに変わっただけ。街で暮らす人々の需要を拾い上げて、できるだけで皆さんが居心地のよい居場所にすることが私たちの仕事です」

そのため、ののあおやまでは、一般的な商業施設のような賑わいは狙っていないそうです。

「幼いころ育った街から離れた人がたまたま帰ってきた時、思い出の中の店や場所がなくなってしまっていると、悲しいし、地元という感覚が薄れてしまうではないですか。だから帰ってきた時に、あの場所がまだあると感じてもらえる場所にしていきたいんです」

『まちあいとおみせ』の中を見て印象的だったのは、地元の小学生が作った「青山の町の見どころMAP」でした。、港区立青山小学校の生徒たちに作ってもらったものとのことですが、現在ののあおやまでは、こうした地元を交えたイベントを中心に展開されています。

「ののあおやまの特徴の一つでもある樹林帯。ここを管理するのは造園業者さんにお願いすればよいのですが、例えば剪定をし終わった後の枝の処理を、地元の小学生に協力してもらい、使える形にして、樹林帯に返す催しを開催すれば子どもたちは、お手伝いの傍ら、ののあおやまで自然と触れ合う体験ができますよね。造園業者の方と地域の子どもたちが顔なじみになってくれれば、地域であいさつが飛び交い、街の防犯にも結び付きます。こうした掛け算の催しをするように心掛けています」

お話を伺っていた中で面白いなと思ったのが“いきもの選挙”というイベント。実際の選挙期間中に、ののあおやまの樹林帯に住む昆虫たちの紹介パネルを展示しながら、どの虫が好きかという選挙を子どもたちにやってもらったというのです。青山で共に暮らす生き物と触れ合うきっかけになりつつ、社会とのつながりを子どもたちに意識してもらえるとてもよい試みだなと感心しました。

「ののあおやまではコンサートなどのイベントも行っているんですが、演奏家の皆様には、ののあおやまが大切にしている「自然との共生」や「人と人との‘間’」について共有しています。定期開催している「能ノ会」では、能楽師の皆さんもご家族を連れてきてくださり、そのお子さん方が会場作りのお手伝いをしてくれています。ののあおやまは演奏する場だけでなく、演奏する人と聴衆とが一緒に「過ごす場」になっていると感じています」

水野さんは“訪れた人と人生を共有していく。人の人生の一部になる”と、ののあおやまのタウンマネジメントの方針をわかりやすく伝えてくださいました。

青山を思ってくれる“青山人”を増やすために

水野さんのお話の中には度々“青山人(アオヤマビト)”という単語が飛び出してきました。

「青山を地元と思う青山人を増やすことが、私たちの活動の主目的です。地元の人というのは、ここで生まれ育った人々だけではなく、ののあおやまで働く人や近隣で働いている人達も含んでいます」

実際、ののあおあやまの樹林帯部分では、休憩時間に訪れてぼーっとベンチに腰かけているサラリーマンの姿もありますし、保育士に連れられて水辺に遊びに来た保育園児たちの笑い声も響いています。老若男女問わず、近隣の人々が自然と足を運ぶスポットとしてすでに定着し始めているのです。

ちなみに水野さんや中井氏は、青山まちづくり協議会設立後に、『青山構創』や『青山まちみらい』という冊子を発行しましたが、この冊子のなかに今回の再開発プロジェクトにおけるテーマ、コンセプトが記されています。

「最初に中井の想いを『青山構創』にまとめたんですけれど、熱い想いが溢れ続け、結局3部作の大作になりました。その後、端的にわかりやすく街づくりのコンセプトを伝えるために再編集し直したのが『青山まちみらい』となります」

青山まちみらいに記されていたのは、これからの青山の街をどうしたいか、地元の想いを汲み取りまとめた10のコンセプトでした。

1.時間をつないでいく

2.自然との共生を志す

3.照葉樹林を共に育てる

4.文化を集め広げていく

5.感性を刺激する

6.人が集う基盤になる

7.気品を守る

8.コミュニティを育む

9.仕事をつむぐ

10.まちに新たな可能性を切り開く

これらの冊子を読むことで、北青山三丁目地区まちづくりプロジェクトの全貌が、おぼろげながら浮かび上がってきました。再開発によって町ががらりと生まれ変わるのではなく、江戸時代から続いてきた地元の相互扶助の精神を受け継ぎながら、次の時代に伝えていくための拠点を作りたいという地元の願い。もちろん戦後の青山が培ってきた、アートやデザイン、ファッションなどの文化を伝える拠点としての、ののあおやまを使っていただき、集ってきた人々に新たな文化を創造してもらいたい。でも、普段は人が集まる憩いの場でありつつ、万が一の際には防災の拠点にもしたい。

こうした数多の願いの実現のため、元々青山に広がっていた豊かな自然の姿を、地元の人々と一緒に育み育てていくことを大きな目的のひとつとして掲げ、長期的な成長を目指していく。

大きなイベントを行わないのも、短期的な価値観に流されず、青山というイメージを大切に育てながら、思慮深く情感に満ちたつながりを生みたいという狙いからでしょう。

ふと、取材中に水野さんが語られていた言葉を思い出しました。

「ののあおやまは、“世界平和”がコンセプト、ビジョンなんです。街というものは、究極的には、人の命を奪わず守れる場所であるべきでしょ。青山という街は、空襲で多大な被害を受けたという悲しい歴史があります。そうした悲劇を繰り返さないように、きちんと歴史や平和を学ぶ場が必要と思うんです」

お話を伺っていた時は突然出てきた世界平和という言葉に、面食らってしまいましたが、この10のコンセプトを見てわかってきた気がしました。究極の平和とは、きっと“日常を継続できる街がある”ということなのでしょう。青山という街を50年100年と残していくためには、連綿と日常を続けられる空間を保つ必要があるのではないでしょうか。北青山三丁目地区まちづくりプロジェクトの究極の目標は、そこにあるのではないでしょうか。

都内各所で行われている再開発は、その多くが大型商業施設に有名店を集め、上層部に住宅やオフィスを集めた形に帰結しがちです。が、北青山三丁目地区まちづくりプロジェクトでは、住民とディベロッパーが一丸となって、全く異なる形での持続可能な街づくりを始めています。

定期的に、青山に縁ある方々に向けたイベントも開催されて盛り上がっていますし、まったく新しい街づくりの形として、これからも注目していきたいと思います。

現在工事中の北側の再開発を含めたののあおやまの完全開業は、2029年を予定しているとのことです!

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