【御菓子司 新正堂】伝統を知らないからこそ自由に羽ばたく大ヒット和菓子の産みの親
新橋駅を降りて徒歩10分。師走の時期になると行列のできる和菓子店があります。こちらは『切腹最中』なる物騒な名前のお菓子で、頻繁にメディアに紹介される『御菓子司 新正堂』さんです。
“切腹最中”のインパクトに引きずられがちですが、大正元(1912)年から営業されている老舗。ということで先代店主であり、現在は株式会社新正堂の会長職に就かれている渡辺仁久(わたなべよしひさ)さんに、お店の歴史について伺ってきました。
婿養子として入った職人の世界
「初代の名前は渡辺新次郎と言います」
ご挨拶後、しばらく歓談をしたのち、渡辺会長はこう話し始めました。
初代の渡辺新次郎氏は、岩手県の出身。菓子職人として一旗揚げようと最初に大阪へ出たそうです。そこで修行をされた後、店を持つならやはり帝都・東京だろう、と上京してきました。その際、店を構える地として選んだのが、新橋の田村町(現在の新橋4丁目付近)でした。
「町名にもなっていたようにこの地には、一関藩の藩主である田村右京大夫の屋敷がありました。一関藩は現在の岩手県ですので、付近には江戸時代から岩手出身者が多集まっていました。初代は、彼らを頼ったと思われます」
“新”橋に大“正”元年に開かれたお店・新正堂は、まさにその田村屋敷の跡地に建てられました。店は大繁盛。すぐに大層立派な店舗を構えるに至ります。ですが、この店舗は大正12(1023)年に起きた関東大震災により、わずか11年で焼失してしまいました。それでも、新次郎氏はあきらめることなく、店を再開。なんとか二代目へと店を渡すことに成功しました。
さて、三代目の仁久さんは、実は婿養子。ご出身は愛知県だそうです。
「旧姓は加藤と言います。元々はデザイナー志望だったんですよ。実家は印刷会社をやっていまして、会社は長兄が継いでいました。私もこの印刷会社で働いていたんです」
いざまちも認定を受け使用させてもらっているMINATOシティプロモーションシンボルマークのデザインも、私がプレゼンして推薦したものですよと少し自慢げです。
「そんな時、新正堂の長女であった妻と出会い結婚しました」
和菓子作りに縁もゆかりもない生活を送っていた仁久さんでしたが、結婚3年を迎えようかというある日、奥様から相談を受けます。
「お父さんが、新正堂を辞めちゃうと言っていると、妻がこういうんです。慌てて東京のお店に駆け付けたところ、先代から“加藤君、やってくれるか”、と相談を持ち掛けられました。私は三男でしたし、家業は兄が継いでいるので身軽でした。やるしかないなと。愛知での生活も安定していたんですけれどね。結局、婿養子に入り、昼は新正堂の手伝いをしながら、4年間夜間学校で菓子作りを一から学ぶことになりました」
こうして、和菓子職人の世界に飛び込むこととなった仁久さんでしたが、そこに広がっていたのは衝撃的な世界でした。
「職人の世界ですので、当時はまだ従業員に対して丁稚奉公のような感覚が店の中に残っていたんです。渡辺の家族と丁稚である従業員とは決して食卓を共にしてはならず、店主家族が昼休憩でトンカツを食べるなら、授業員のメニューはコロッケのようにメニューにまで差をつけていました。私はそれが嫌で嫌でしょうがなかった。だからある日、先代に言ったんです。“みんなで食事を食べましょうよ”と。そしたら、まあ大反対にあいまして」
結局、新正堂に入って3ヵ月間、仁久さんはご家族と昼食をとることなく従業員の方々と食卓を共にしていたそうです。
「一緒に働く仲間なのに、区別するのが嫌だった」
と当時を思い返す仁久さん。結局、ご家族も最後は折れて皆で食卓を囲むようになったそうです。すると、不思議なことに従業員のやる気が目に見えて上がってきました。
「従業員を大切にすれば必ず事業は成長するんですね」
と仁久さんは語ります。とにかく、元々菓子職人の世界の伝統やしきたりなど知らない仁久さんは、自由奔放に動きだします。まず始めたのが、社員食堂巡りでした。
「菓子折りを購入されるのは、企業の営業の方が多いでしょ。当時、新橋周辺には大きな企業や銀行の支店が今よりたくさんありました。この頃の社屋の中には必ず社員食堂があったので、わざわざ店に足を運んでもらうより前に社員食堂で御菓子を買えるようにすれば便利じゃないかと思いついたんです。お菓子の箱を持って、飛び込みで各銀行さんに行きましてね。警備員の方に、さも出入り会社のような雰囲気で声をかけるんですよ。“こんにちは、社食ってどちらですかっ”て。今ほどセキュリティも厳しくないし、一般開放されている社食も多かったですので大抵は中に入れてもらえました。それで、食堂に付くと今度は調理担当の方に声をかけるんですよね。“どうも、近所の菓子屋です。警備員の誰々さんに教えてもらって来たのですが、こちらの食堂で当社の御菓子を売ってもらえませんか?”って。効果覿面でしたねえ」
新正堂の名と御菓子の味は、新橋界隈の企業の間で瞬く間に知れ渡りました。なんとも大胆不敵な営業手法ですが、確かに客先へもっていく御菓子が社内で帰ればかなり時短になります。ちなみに仁久さんはこの飛び込み営業で忘れられないエピソードもあるそう。
「日本銀行ってあるでしょ。私、お恥ずかしながら、あの銀行がお札を発行している銀行だってことを知らなかったんですよ。だから、他の銀行と同じように、警備員の人に声をかけて、他の銀行と同じように食堂の中に入り込んで……御菓子を卸すことに成功しちゃいました。名刺の裏に、主要取引先とかを記載するじゃないですか。そこの中に“日本銀行”って文字も普通に載せていたら、他の卸先が血相を変えて飛んできましてね。“渡辺さん、この日本銀行って、あの日本銀行じゃないよね?”って。その時になって初めて日本銀行とは何なのか知りました」
なお、先代は日本銀行に御菓子を卸したという成果を大層喜んでくれたらしく、周囲の人々に名刺を見せびらかしていたのだそうです。「現金なものですよ」と仁久さんは笑っていらっしゃいました。
忠臣蔵愛から誕生した大ヒット商品『切腹最中』
仁久さんの飛び込み営業戦略は奏功しましたが、やがて同業他社も参入してくることとなりました。
「大手製菓会社などが参入してくると、やはり私どものような個人店では厳しいですよね。新橋周辺の銀行や企業も、バブル崩壊やら色々あって少なくなってきたため、今度は看板商売を作らなければならないと思うようになりました」
そこで仁久さんに思い浮かんだのが忠臣蔵です。
「元々、忠臣蔵が好きだったんです。この店に来た時に、店のある田村町というのがあの忠臣蔵の田村家上屋敷ということを知って興奮しました(編注:江戸城松の廊下で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭が切腹をした場所)。改めて江戸というのは、生活の中に歴史が根付いていて凄いところなのに、どうしてそれを売らないのだろうと思ったのがきっかけです」
仁久さんは忠臣蔵にちなんだ和菓子を作ろうと動き始めます。思いついたのが、あんこをはみ出る限界まで詰め込んだ最中でした。浅野内匠頭が切腹した屋敷跡で売るのだからということで、“切腹最中”という名前がぽんっと浮かんだそうです。
「個人的にはインパクトもあっていい名前だと思ったのですが、家族からは大反対されました。それならば外部の意見を取り入れようと、知り合いん頼んで商品名についてアンケートを取ってもらったのです。結果は反対118に対して、賛成1。悔しかったですねえ。ただ、あの時賛成を投じてくれたデザイナーの方は、もうお名前も覚えていないのですがいまだに顔は覚えています」
周囲から大反対を受けた切腹最中でしたが、仁久さんは最初の直感をあきらめられませんでした。ことあるごとに家族に“切腹最中”というネーミングをプレゼンし続けたそうです。
「最後には義母が折れて、切腹最中という名前で商品化することができました」
ところで、現在はお詫びの手土産として東京の定番菓子の座を射止めている切腹最中ですが、当初はこのような使われ方をするとはまったく考えていなかったのだそうです。
「2年くらいはあまり売れませんでしたよ。ですが、ある日お得意様がお店にいらっしゃって、“お詫びの品として切腹最中を持っていきたい”と購入されて行かれたんです。私は、やめた方がいいんじゃないの?と正直思っていたのですが、どうやらそれが受けたらしい。そのエピソードが徐々に広がっていき、気がついたら“切腹する覚悟で謝罪に伺いました”という気持ちを代弁する菓子として様々なメディアで取り上げていただけるようになりました」
切腹最中については、仁久さんには忘れられないエピソードがあるそう。
「とあるお客様が結婚式の引き出物に切腹最中を使いたいと言って来たんです。結婚ですよ⁉ 割るとか、割くとかを最も嫌う場じゃないですか。さすがの私も、”よした方がいい”と、お断りしたんです。その日はしぶしぶ帰っていかれたのですが、数日後またやってきまして、どうしても切腹最中が使いたいんです。私たちは2人は、腹を割くくらいの気持ちでこの結婚に臨みたいんです、とおっしゃった。物は言いようだなと、感心しました。お二人は、切腹最中を引き出物に購入いただきましたが、いまだに夫婦円満で過ごされていらっしゃいます」
伝統は変えなければつながっていかないという思い
切腹最中が大ヒット商品となったのは、ネーミングの面白さからだけではありません。そこには、きちんとした味の裏付けもあります。
「まずは黙ってこれを食べてみてください」
と仁久さんは2種類の最中の皮を差し出してくれました。一つは一般的な最中に使われる皮で、もう一つは切腹最中の皮なのだそうです。食べ比べてみてびっくり。一般的な最中の皮は、上あごに引っ付く感じのあるいつもの皮なのですが、切腹最中の皮は、パリッとしたクリスピーな食感と、香ばしいにおいが口中に広がります。まるで違う食べ物です!
一体どこで、この差は生まれているんでしょうか。
「これは、生地を作る際の水分量の差です。通常の最中の皮は、粉10に対して水12の割合で作ります。ですが、切腹最中はあんこの量が多い。通常の皮を使ってしまうと余計に水分を吸ってべちゃっとしてしまうのです。そこで、皮の水分量を減らして、食感を軽く仕上げつつ、従来の皮よりも香ばしくしました」
最中の皮というのは、一般的に最中の皮を専門で作っている業者さんに発注して用意しているそうです。仁久さんが、切腹最中用に水分を減らした特注の皮を作りたいと相談に行った時、業者さんは大層驚かれたとお話されました。
「そんなことを言ってきた和菓子屋さんは初めてだったそうです」
確かに、水を増やした方が生地の量も増えて経済的ですし、それで従来の味と変わりはないのですから文句はありません。ですが、仁久さんは切腹最中の味を高めるためだけに、この特別な配合の生地にこだわりました。
さらに渡辺さんは産地至上主義も改めます。最中の皮の原料となるもち米を、どこの産地で取れるものを使うかに職人はこだわります。ですが、もし特定の産地が天候不順で不作に陥ってしまった際、異なる産地のもち米で代用するしかなくなり、新正堂の味や香りを求めるお客様に対する裏切りになってしまういます。そこで、渡辺さんは、複数産地の米粉をブレンドすることにしました。これにより味も供給も安定化させることができました。一般企業なら、まず検討するリスクヘッジですが、渡辺さんが始めるまでは一般的ではなかったそうです。
職人の世界には往々にしてこういった事例があるのだそうです。
「ある日、小豆を煮ていて気付いたのです。昔はもっと灰汁がブクブク出る物だったのに、最近はあまりでなくなったなと。これはどうしてだろうということで、知り合いの生産者や菓子屋に聞いて回った。すると、それは品種改良が進んでいるからだよ、ということを教えてもらったんです。なるほど、小豆もどんどん美味しく品種が改良されているのだなと思いましたが、同時に大きな疑問も湧きました。現在、和菓子の学校や老舗で教えている小豆の炊き方は、水に小豆をじっくりつけてから炊きはじめるというやり方です。実はこれ、鎌倉時代から変わらないやり方なんです。品種がこんなに変わっているのに、同じやり方を続けていていいのか?と思ったのです」
ちょうどそのころ、仁久さんはとあるあん焼機の部長の発表を聞く機会を得ました。そこでは、小豆がどのように水分を吸収して旨味を出すか、灰汁はどこから出るかという仕組みが開設されていたそうです。結論から言ってしまうなら、小豆を美味しく炊き上げるには、最初からぐらぐらに立った熱湯で炊いてしまった方がよいということでした。
仁久さんは早速ご自身でこの製法を試してみます。すると、それまで食べたことのないくらい美味しく香りの良いあんこが炊きあがりました。新正堂のあんこの味は業界内で話題を呼び大手製菓メーカーから中小和菓子店まで、全国から見学に訪れる職人が訪れるようになりました。仁久さんは訪れる人たちに、学んだ熱湯から炊き始めるというやり方から、調味料の配合まで全てを公開しました。明らかに味も香りも変わることに、訪れた職人さんたちは目を丸くされましたが
「渡辺さん、でもこのやり方はうちでは無理だよ」
と、多くの方が伝統的な手法を変えることに難色を示されたそうです。
「美味しくなることが、お客さんに喜ばれるんだからそれでいいじゃんと私なんかは思いますけれど、やはり職人や老舗の世界では、教えられたこと、学んできたこと変えていくことは難しいんだなと思います。そういえば先代が亡くなる前に、ぽつりと私に“お菓子屋さん以外の人が、新正堂に入ってよかった”と言ってくれたことがありました。あれは、本当に嬉しかったです。私ががむしゃらにやってきたのは、婿養子の癖にと言われたくない一心からでしたから」
と、軽口をたたく渡辺さんでしたが、話を伺うとニ代目も当時の職人としてはかなり先進的なことをされていたそうです。
「二代目が亡くなってかなり時間を絶ってから、かつて新正堂で働いていたという元従業員が訪ねてきてくださったんです。その方が、ありがとうありがとうとお礼を言ってくるので何事かと思ったら、どうも先代は、当時の従業員すべてを厚生年金に加入させていたみたいなんですね。当時、職人の弟子なんていうのは国民年金が当たり前でした。その方も年金暮らしになってから初めて、自分が厚生年金に加入させてもらっていたことを知ったそうです。想定していたよりも、楽な老後を送れていますと感謝を伝えてくださいました。あれだけ丁稚が、丁稚がと従業員を扱っていた二代目でしたが、彼も元々は弁護士を目指して勉強をしていたと聞いています。年金制度も勉強し、従業員のことを思って動いていたのでしょうね。表ではあれだけ丁稚扱いしていたのに、やっぱり従業員のことを大切に想っていたのだなと感心しました」
かつて、芝地区には46店舗もの和菓子店があったそうです。ですが、今残っているのは新正堂を含め9店舗だけだそうです。老舗というと伝統を守るものという先入観がありましたが、ニ代目、三代目の渡辺家の動きを知ると、時代に合わせて変化していくことことそが、長くつないでいくために重要な要素なのでしょう。
多くの和菓子店は、教えても変えることができなかったそうです。ですが、若手職人の中には、少しずつ渡辺さんの教えた手法を店で試し始めた他もいるそうです。変化を恐れず良いものを作ってつなぐという仁久さんの思いは、全国に広がっています。
今の夢は「徳川将軍ロード」の実現⁉
そんな渡辺さんは、2022年に新正堂の店主の座を、4代目の仁司さんに継ぎました。店を継いでからは基本的に経営方針には口を出さないようにしているそうです。
「なんだったら、切腹最中なんて止めてしまっていいとも伝えています。あれは、私が作った菓子です。子どもたちには、自分たちの手で自分たちの菓子を作ってほしい。だいたい、年末の風物詩だった忠臣蔵の映画やドラマももう25年以上やっていないんですよ。若い人たちは忠臣蔵なんて知らないんだから、切腹がー、と説明した所で伝わらない可能性が高いんです」
現役のころは、年始くらいしか休んでいなかったという仁久さんにとって、今の生活は人生のカンフル剤のようなもの。のんびりしているとおっしゃっていました。ですが実は仁久さん。現在、港区観光協会の会長職と、芝地区の老舗の集いである芝百年会の理事職を勤めており、各所を精力的に走り回っています。そもそもどういった経緯で、町の和菓子職人が、港区観光協会長という役職に就くこととなったのでしょう。
「ご存知の通り港区には、全国に名の知れた大企業さんがたくさんあります。私の前の観光協会は、会長はじめそうした企業の方々が役職を占めていらっしゃいました。私のような個人商店の会員は、参加はするものの、やはりどこか一歩引いていましたね。ところがです。前観光協会長が引退されるとき、私に会長をやってくれと言って来たんです。そうそうたる企業のメンバーが並ぶ中、私は気が引けてしまい一回お断りをしたんです。でもね”渡辺さん、それは違うよ。僕たちのような大きな企業の人間は、時期が来れば辞令が出て異動してしまう。でも、あなたのお店はずっと港区にあるじゃないか”と言われたんです。ハッと目が覚めましたね」
仁久さんは、観光協会の会長を引き受け自分の生まれ育った町に恩返しをする決意をされました。そんな渡辺さんの現在の目標は、港区を『日本遺産』に登録すること、なのだそうです。
「江戸城から南には、徳川家の菩提寺である増上寺があって、紀州徳川家の別邸となった浜離宮がありと、徳川将軍が訪れたであろうスポットが、そのままの形で残っています。こうした江戸時代から残る名勝を繋いで、徳川将軍ストリートとして日本遺産に申請してみたいんです」
実は、現在日本遺産には大きな課題があると言われています。世界遺産と比べてブランディングにうまくいっていないこと、仮に登録されたとしてもそこへ訪れるための交通網が整備されておらず、観光振興の本意を達成できていないことなどです。だから港区なのだと渡辺さんは熱く語られます。港区はすでに交通網の整備は完了しており、そこに予算がかかることはありません。羽田空港から電車一本で来れるというアクセスの良さから、訪日観光客向けに特別なアナウンスをせずとも、連日多くの外国人が町にあふれています。
「港区で日本遺産の知名度を上げることができれば、全国の他の日本遺産のブランディングにも繋がります。結果的に、全国の観光事業者さんをお手伝いし、地方創生を手助けすることができるのです」
もっとも、日本遺産は自治体単位で申請をするルールがあるらしく、観光協会の力だけではどうしようもできません。なので、仁久さんは、毎日のようにせっせと港区の関係各所を毎日のように回っていらっしゃるのだそうです。。
「のるかそるかですが、町への恩返しとして、やれるだけやってみますよ」
と、少し恥ずかしそうにしながらも、瞳の奥に熱い想いをたぎらせていらっしゃいました。
現在は、区から頼まれたお仕事が9割とおっしゃっていますが、それでも、自分が生み出してきた御菓子のことを語る眼は少年のように輝いていらっしゃった渡辺さん。
きっとこれからは観光協会長として、またまた型にはまらない発想でやりたいことに向けて全力でぶつかっていかれるのでしょう。
【御菓子司 新正堂】
住所: 東京都港区新橋4丁目27−2
時間:9:00〜19:00、土曜日9:00〜17:00。
定休日:日曜日、祝日
※8月中は土・日・祝日
アクセス:JR新橋駅「烏森口」から徒歩6分