【港区の老舗】江戸時代から受け継ぐ“粋”の味――芝地区「おかめ鮨」
港区にある“老舗”たち。社会の変動や災害、戦災など移りゆく時代を超え、旧き文化や味、歴史を受け継いで佇むお店には、どんな物語があるのでしょうか。その一ページを、つまびらかにしてみましょう。
芝地区では、老舗22店が集い、地域経済活性化や老舗文化の発信・相互交流を図るために創設された「芝百年会」が活動しています。今回は、同会の副会長を務めている、「おかめ鮨」の5代目店主・長谷文彦さんの話を通して、代々受け継がれてきた江戸前鮨の「粋」と「技」に迫ります。
常連客が通い詰める! 老舗鮨店「おかめ鮨」
「おかめ鮨」の歴史は、江戸時代の安政2(1855)年にまで遡ります。もうじき、創業約170年。老舗でありながら、入口付近には魚の写真を貼った手書きのボードやカエルをかたどった石の置物があり、ほっと心を和ませます。
以前、雑魚場に関する記事でご紹介したとおり、同店は現代でいう「デリバリー」からスタートしました。初代店主は「そうたろう」さんといったそうです。
「おかめ鮨」が店舗を構えたのは、明治維新よりずっと後のことだそう。むしろ、店舗を持たずとも、激動の明治維新を乗り越えたことに驚きです。
「浜のせがれ」――5代目・長谷さんの一代記
代々「おかめ鮨」店主の家系に生まれた長谷さん。物心つく頃には、祖父である3代目店主に連れられ、よく河岸に顔を出していたそうです。周囲の大人たちから「5代目」と声をかけられることも多く、漠然と「自分は5代目になるのかな」と、意識し始めました。
魚を見るのも好きだったそう。それは今も変わらず、趣味は釣り。仲間と船を出し、東京湾に行く機会も多いそうです。
「母親や祖母から、『(5代目を)やってくれたら嬉しい』と言われたことはありましたが、祖父や父は、決して自分たちからそうした言葉は言わなかったんです。一人前に鮨を握れるようになるまで、修業の大変さをよくわかっていたからかもしれません」
転機が訪れたのは、高校1年生の3学期。「期末試験が明日から始まるというタイミングで、父が他界したんです。3代目にあたる祖父が、葬儀などを仕切ってくれました」
その後は大学に進学したそうですが、当初は大学に行くことに、周囲はあまり賛成ではなかったそう。「当時は受験をして大学に行ったら、どこかに就職する、という流れが一般的になってきまして。近所では、ご子息が大学に行ったきり、そのままどこかの企業に就職して、店を継がないケースもあったんです。私が大学に行ったら『おかめ鮨』を継がなくなるのではないかと、周囲は心配したようです」
そんな状況を救ってくれたのは、常連客のひとりでした。
「昭和50年代前半の当時は、松下電器(現在のパナソニック)やNECのオフィスが店の近くにありました。松下電器の専務が店を懇意にしてくれていて、『本人が行きたいなら大学に行かせた方がいい』と、家族を説得してくれました」
こうして大学へ進んだ長谷さんでしたが、学業と並行して、寿司職人としての技術も身に付けていきます。
「大学生のときは、朝に築地の河岸に仕入れに行ってから大学へ。帰宅したらお店の手伝いをする日々でした。気づけば学生の時に、握りや魚の仕込みはひと通りできるようになっていました」
19歳の時には、運転免許も取得。大学や店の手伝いを続けながら田町の教習所に通い、免許を取ったそうです。並の学生と比べると、随分とハードな生活にも思えます。その後は、寿司職人として修業を積むため、お茶の水の回転寿司店で働いたことも。
「時給がすごく良くて(笑)。一時期、そこで鮨を握っていましたね」
美味しいお鮨を提供するため、捌き、シメ、煮上げなど1つひとつの工程に心を込めている「おかめ鮨」。店の歴史が長く続いているのは、長谷さんをはじめ代々の店主の努力の賜物であることはもちろん、近所の人たちの心配りもありました。
「父が他界した後も、周りの人たちが度々通ってくれて、お店を支えてくれたんです」
店主が代替わりしてもなお、その店を愛し、足繫く通う常連客。そうした粋な助け合いの精神が息づいているのも、老舗の強みと言えるかもしれません。
なぜ鮨は2貫? 答えは歴史にあり
突然ですが、なぜお鮨は1皿に2貫あるのか、不思議に思ったことはありませんか? その謎を、長谷さんが教えてくれました。
「江戸時代に提供していたお鮨は、現代の3倍くらいの大きさで、握り拳くらいの大きさがあったと言われています。食べやすくするため、江戸前鮨は2貫に分けられているとか。かつて祖父(3代目)が握っていたお鮨も、酢飯の量がとても多くて。コンビニエンスストアで売っているお握りくらいのボリュームがありました」
「おかめ鮨」の現在と未来
同店では現在、利用客の需要に応えて、お昼時にランチ、夕方~夜にディナーを提供しています。お店の入り口付近には、達筆な文字でメニューが掲げられています。
「おかめ鮨」の立地は、国道15号線に面したビルの1階。付近には線路や高層ビルが並んでいますが、もともとは海だったことを物語る、こんなエピソードを明かしてくれました。
「工事の関係で、店が入ったビルの地下を掘ったことがあったのですが、地中が貝殻だらけでした」
江戸時代末期から明治、大正、昭和まで、埋め立てや戦時下の影響を受けた東京湾は、海洋環境の変化を余儀なくされ、漁獲量も減少していきました。しかし、近年では水質がきれいになっていき、貴重な野鳥や魚たちも棲むように。海を誰より近くで見つめ続けてきた長谷さんは、「近年の海の自然回復力には目を見張るものがあります」と語ります。
「東京湾は鮮魚の宝庫です。将来的には太刀魚、フグ、白キスなどの魚を鮨のネタとして使えたらいいですね」
既存のメニューやちらし寿司も十分好評なのに、地元のネタが増えたら、いっそうファンが増えてしまうかもしれませんね。
鮨文化の発展と「おかめ鮨」
鮨の起源は非常に古く、当初は魚と米を塩で漬け込んだ「なれ鮨」という発酵食品でした。その起源は東南アジアとされており、いつ頃日本に伝わったかは平安時代、奈良時代など諸説あります。発酵させる必要があるため、完成するまで長期間かかりました。
「宮中では、鮨のことを『おすもじ』と呼んでいました。『すしもじ』から『し』の字を取り、『お』を付けて『おすもじ』と言ったんです」
やがて、「なれずし」は京都・大阪といった上方から江戸に伝播します。そこで新たに生まれたのが、江戸ならではの握り鮨。約1800年代頃の江戸で、酢飯と合わせて生で食べる「握り鮨」の文化が生まれたのです。
「おかめ鮨」の初代大将も、塩や酢、醤油でアレンジを加え、お店オリジナルの味を創り上げました。長谷さんはその味を継承しながらも、季節限定メニューである「雛ばらちらし」を提供するなど、新しい試みを取り入れています。
芝地区には、日本の和の文化に基づく店舗と、西洋文化とともに発展した店舗、どちらも存在しています。旧きを残しつつも、新しいことに取り組み続ける芝にあって、「おかめ鮨」も芝百年会の各店も、今後新たな形で発展を遂げていくかもしれません。
それでも、200年先も300年先も、伝統の味と文化が変わらずそこにありますように――。そう祈らずにはいられない、温かな雰囲気の老舗の名店は、今日も芝の地の一角で、絶品のお鮨を提供しています。
【おかめ鮨】
住所:東京都港区芝4-9-4
時間:11:30〜13:00、17:00〜22:00
定休日:毎週土曜日・日曜日、祝日
アクセス:JR田町駅、都営浅草線・都営三田線三田駅より徒歩8分