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【喫茶店】”裏新橋”ってどこのこと!? 日本のコーヒー文化発祥を巡るまち歩き!【芝百年会公開講座】

2024年7月13日

サラリーマンの聖地として全国にその名を響かせる港区“新橋”界隈。駅前には、大衆向けの居酒屋が立ち並び、仕事を終えたサラリーマンたちが毎夜の如く管を巻く酒飲みの天国なのです……が、そんな駅前を外れ南側へ向かうと、コーヒーの名店がひしめく喫茶店激戦区でもあるということをご存じでしょうか?

2024年6月現在で、この狭いエリアのなかに10軒もの喫茶店がひしめき合っています。

港区観光協会などでは特に喫茶店の集まっている新橋4丁目の南側から、新橋5丁目・6丁目を含むエリアを“裏新橋”と名付け、喫茶店MAPなどを作成しています。第一京浜と日比谷通り、新虎通りなどに囲まれたエリアです。それにしても、どうしてこの一帯に喫茶店が集まっているのでしょう?

その謎を解くべく、2024年5月29日、芝信用金庫で開催された『第15回公開講座 裏新橋とは、日本の喫茶店文化誕生の地』に参加してきました。以下は、そのレポートとなります。

公開講座は芝信用金庫本店10階の会議室で、まず座学から始まりました。講師は、映像作家でデジタルコンテンツプロデューサーの池葉丈志さん。まちの歴史にはそれほど関わりのなさそうなお仕事をされていますが、実は今回資料として配布されていた『裏新橋コーヒーMAP』や、『裏新橋カフェ散歩』というサイトの制作プロデューサーを手掛けられていらっしゃいます。

池葉さんは裏新橋のコーヒー史を調べる中で、コーヒーに関する資格まで取得されたそう

「もともとコーヒーはそんなに好きではなかったんですけれどね」

ということでしたが、これらのMAPや冊子制作のために行った綿密な調査結果を発表してくださいました。

現在の新橋4~6丁目の界隈は、もともと有力な大名の大名屋敷がひしめき合っていたエリアでした。ところが明治維新を迎えるとこれらの屋敷は消滅することになります。代わりにこの地に入ってきたのが家具職人や金属メッキ加工の職人でした。

現在も裏新橋を散策すると家具を製作する職人の工房が見つかる(写真は『佐山製作所』)

職人の町に変わったきっかけは、明治5(1872)年の新橋~横浜間の鉄道開通です。横浜港に運び込まれた西洋の文物は、鉄道で新橋まで運ばれてきます。必然的に、新橋の周辺にはそれらの文物を必要とする西洋人や、西欧化をいち早く成し遂げたい政府機関の施設が集まりました。

国政『新橋鉄道館之図』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-07-03)

新橋駅からほど近い築地には外国人居留地ができていましたし、その影響もあり、西洋料理を出すレストランなどもできました。

芝にあった海軍の施設では西欧式の制服を着用し始め、芝増上寺本坊を校舎として明治5年に設立された「開拓使仮学校(現・北海道大学)」では、寄宿舎の生活はすべて西洋式と指定されていました。

つまり、日本国内の他地域よりも、少しだけ早く文明開化が始まったのが新橋エリアだったのです。

新橋に集まる西欧化を始めた人々に向けて、西洋家具や、メッキされた徽章などの需要が生まれたため、裏新橋にはこれらの技術を身に着けた職人たちが集まったと考えられます。

付け加えるなら、西洋式の生活を送るということは、食生活も西洋式に揃えるということです。

以前ご紹介させていただいた『中沢乳業』さんが新橋駅付近に牧場をつくり、牛乳の製造販売を始めたのが明治元(1868)年。同じように、芝日陰町(現・港区新橋二・三丁目)にて木村安兵衛が『文英堂』を創業してパンの製造販売を始めたのが明治2(1869)年です。

新橋周辺には明治初頭から、洋食文化の萌芽が見え始めます。実際、明治6(1873)年の鉄道輸送運賃表には加非(コーヒー)が記載されており、間違いなくこれら洋食とあわせるために、コーヒーが必要とされていたことがわかるのです。

喫茶店という業態の誕生

しかし、明治初頭の新橋における西欧化は、求められて行われた西欧化ではなく、なかば強引に進められたものでした。

明治初期の日本人にとっては、コーヒーは泥水を飲んでいるように苦く、牛乳は油臭い。パンは、ビスケットのように固いし、口の中の水分を奪って食べにくいと思われていました。いずれも、日本人の口に全く合わなかったのです。

これら味わいの問題は、さまざまな方向からのアプローチにより、徐々に日本人好みに改良されていきます。

コーヒーについては、鹿鳴館外交により西欧料理が日本で作られるようになり、やがて日本人が西欧料理を食べられるレストランも市中に誕生しました。これらのレストランでは、食後のコーヒーが供されることが定番だったようですので、人々がコーヒーに触れて慣れる機会が増えました。

泥水のようと嫌われていたコーヒーでしたが、栄養が豊富で薬として用いられていた牛乳を混ぜてのむことで、飲みやすくなるという方法が定着しました。コーヒーの苦みが薄れ、香りを楽しめるようになったうえ、油臭いとされていた牛乳の臭いも薄れます。さらに砂糖をたっぷり加えたコーヒーも誕生し各地へ広がっていきました。

次に、パン。新橋で開業した先述の『文英堂』は、明治3(1870)年に銀座へ移転。屋号を木村屋(現・銀座木村屋總本店)に改めます。木村屋は、より日本人に食べやすいしっとりとしたパンを研究し続け、明治7年(1874)年、ついに酒種あんぱんを考案し、発売しました。このあんぱんが爆発的なヒット。銀座木村屋總本店のHPによると、明治15(1882)年には、銀座名物として知られるまでになっていたそうです。

こうしてコーヒーと牛乳、パンが日本人好みの味わいになっていくなか、ついに明治26(1893)年7月、菓子の『凮月堂麻布支店』で“夏見世”と呼ばれる夏限定の喫茶室が催されました。

当時の喫茶室というのは、女給がお酒を提供する現代でいうキャバレー形態の店でした。ですが、凮月堂麻布支店の喫茶室ではお酒は提供せず、アイスクリームや氷水、コーヒー、紅茶、シロップ、ラムネ等を提供しています。女性客でも気楽に入れる純粋な喫茶のための空間であるとして好評を博しました。

このことが口火となり、外でコーヒーと軽食を食べるお店の形式が模索されます。明治29(1896)年。現在の新橋駅付近にあった芝区日陰町に、木村屋がパンの工場を建設しました。この工場ではパンの製造だけでなく、2階に喫茶室を設け、コーヒーや洋食の提供も行いました。これが、記録に残るイートインや喫茶店の元祖と目されています。明治33(1900)年には、『木村屋總本店』から独立し、現在も新橋駅前で営業をされている田村町木村屋』が創業。こちらでもカフェ営業が行われていました。

パン(菓子)と牛乳とコーヒーという、喫茶店の三要素がたまたま一ヵ所で賄えたのが、新橋駅周辺でした。そのため新橋周辺では、他の地域よりもかなり早期に喫茶店文化が醸成されていきました。横浜港から運ばれてくるコーヒー豆を扱う豆の卸業者も多く、こういった複数の要素が重なったことで、裏新橋エリアは現在も、喫茶店激戦区となったと考えらるのだそうです。

「もっとも、現在営業されているお店の方々は、裏新橋エリアが喫茶店激戦区だということに、私が調査を行うまで気づいていませんでした。喫茶店というのは、お気に入りのお店に毎日通うような常連客が多いでしょう。お客さんがよそのお店に移動することはほとんどないので、近所の同業者について意識を割く必要がなかったみたいなんです

と池葉さん。

実際に町を歩いて見つけた裏新橋の歴史スポット

座学によって、町の特殊性について知った後は、池葉さんの案内で、実際に裏新橋と呼ばれるエリアを歩いてみることに。

街歩きはコーヒーに縛られず近隣の面白スポットを続々解説していただけた

今は、ビルに変わってしまっていますが、画家である小林清親や川瀬巴水の暮らしていた旧居や、明治時代に英語塾を開いていた鳴門義民の私塾跡など、ガイドが無ければ絶対に気づくことのないスポットを次々と紹介してもらいつつ、喫茶店も教えてもらうというツアーです。

新虎通りの東端にある小さな日比谷神社は、創建400年を超える由緒ある神社。元々は日比谷公園の中に鎮座していた

日比谷神社の通り向かいにある『むらまつ酒商類』は、文政元(1818)年 創業。角打ちが人気だ

事前に座学で、一帯は大名屋敷だったということを学んでいましたが、その前提知識があったうえで歩いてみると、町の見え方がまるで変わってきます。

新橋5丁目の住宅街の中にある塩釜公園という小さな公園。この公園の中には盬竃(しおかま)神社という神社があるのですが、

この神社は、仙台(現在の宮城県)藩主の伊達家の屋敷の中にあったものだそうです。「あ。塩釜って塩釜市のことか!」という新発見です。

塩釜公園の中にある盬竃神社。管理は宮城県塩釜市が行っている模様

このエリアには、以前紹介させていただいた『新橋 玉木屋』さんの並びに、”切腹最中”で知られる『御菓子司 新正堂』さんもあります。

新正堂の正面には、名物「切腹最中」の巨大オブジェが鎮座している

切腹最中は、この地で切腹をした忠臣蔵の浅野内匠頭を忘れないようにと作られたお菓子です。

昔、このお菓子のいわれを聞いた時は「へえ、そうなんだ」くらいにしか感じませんでしたが、大名屋敷群であったことを知った後だと、
「刃傷沙汰を起こした罪人とはいえ、大名であった浅野内匠頭を切腹までの間預かれるのは、同じく大名である一関藩田村家の屋敷しかなかったのかな」
などなんとなく想像ができてきます。

新正堂の建物の裏通りには、浅野内匠頭の最後を見ていた田村家の銀杏の木を神格化した、田村銀杏稲荷大明神の祠があった

街歩きの最後は、大正7(1918)年にコーヒー豆の焙煎卸売業者として創業し、日本のコーヒー文化の定着に尽力した松屋珈琲店へ。

さまざまな種類のコーヒー豆を店頭で販売している、コーヒー好きなら知らない人はいない名店だ

1時間30分ほどのまち歩きとなりましたが、店頭で購入させてもらったブレンドコーヒーの優しい香りが疲れを吹き飛ばしてくれました。

今回参加させていただいた、公開講座は、芝地区の老舗の集まりである“芝百年会”が、不定期で開催しているものとなります。

次回の公開日は未定ですが、毎回かなりディープな町の歴史を知ることができますので、ご興味のある方は、定期的にチェックをお忘れなく。

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