【新橋 玉木屋】老舗佃煮店で発見した意外な商品の数々!先を見越した新商品開発の裏側
皆さんの冷蔵庫の中に、佃煮は入っていますか?
お米好きかつお酒好きの私は、手軽でたくさん食べても罪悪感がないおかず兼おつまみとして、常に何かしらの佃煮をストックしています。
新橋駅から徒歩約10分。新虎通りに面した一等地に店を構える老舗煮豆・佃煮専門店「新橋 玉木屋」さんをご存じでしょうか?こちらのお店は、江戸時代から伝わる伝統の佃煮をつくる傍らで、数々の斬新な商品を開発しテレビの情報番組などで取り上げられている有名店です。
今回は、そんな「新橋 玉木屋」の10代目女将、田巻 恭子さんにお店の歴史や、現在取り組んでいる挑戦についてのお話を伺ってきました。
玉木屋の歴史は煮豆の行商から始まった
インタビューを始める前、田巻さんからお茶と煮豆を出していただきました。口に含んだ瞬間は豆本来の素朴な味なのですが、一口噛むごとにじんわりと優しい甘さが広がる、なんとも上品な味わいです。
「こちらが、当店創業の味、“座禅豆(ざぜんまめ)”という商品です。岩手県で取れる雁食豆(がんくいまめ)という品種の黒豆を用いています」
田巻さんによると、お店の創業は天明2(1782)年だそうです。初代の七兵衛は越後(現在の新潟県一帯)の生まれ。何らかの理由で、郷里を離れ江戸へ出てくると、天秤棒を担いでこの座禅豆の行商を行っていたと伝わっています。
「東北を中心に飢饉が広がっていたと聞きますので、そのような影響もあったのかもしれません。」
と田巻さん。
ちなみに、田巻という名字は、新潟出身の人が多いそうです。新潟県田上町には、「田巻邸(椿寿荘)」として、田巻の苗字をもつ豪農が暮らしていた屋敷が町指定文化財になっていると教えていただきました。さて、そんな初代・七兵衛が作り上げた座禅豆は江戸で評判を呼び、少なくとも三代目・七兵衛のころには、玉木屋は行商だけではなく、新橋で店舗を構えることに成功していたようです。そして、この三代目が、玉木屋をさらに成長させることとなります。
彼が注目したのが、佃煮でした。江戸時代初期、幕府に招かれた摂津国(現在の大阪府北中部から兵庫県南東部一帯)佃村の漁民たちが、隅田川河口にある佃島へ移住し暮らし始めました。彼らは、獲った魚のうち、諸侯へ納入するものの余りを醤油で煮て保存食としていました。うち一部は、庶民向けにも販売しており、密かなブームとなりました。三代目・七兵衛は、この製法に、独自の味の調整を施しオリジナル商品として販売を始めたのです。
「昔の佃煮は今よりも保存食の意味合いが強かったのでかなりしょっぱい。すると、日保ちのする江戸土産として、参勤交代などで江戸を訪れる方々の評判となったのです。当店は現在、新虎通り沿いにありますが、元々東海道沿いにありました。それですから、行きかえりの途中で購入しやすかったこともあるのでしょう」
こうして、佃煮は江戸土産として全国に広まっていきました。玉木屋の座禅豆と佃煮も、店の看板商品として、現在に至るまで残り続けました。明治時代には、年末に玉木屋の座禅豆を求める人たちの行列が2丁余り続いたと伝わるほどの有名店として知られるようになったのです。
ちなみに玉木屋さんは、もともと現在の新橋交差点角(銀座中央通り入口)にあったということで、恭子さんは貴重な写真資料をたくさん出してきてくださいました。そのうちのいくつかをここに掲載させていただきます。
母への想いから始めたお店の手伝い
恭子さん自身は、新橋周辺で暮らしていなかったそうです。
「兄が子供の時から体が弱かったので。少しでも自然の多い環境へということで湘南の片瀬海岸へ引越し、そこで生まれ育ちました。しかし、まだ私が2歳の時に、破天荒だった父にお店は任せられないという祖父の判断で、家族会議が開かれ、外で働いたこともない母が指名され店を継ぐことになりました。そのとき母は、10歳、9歳、2歳の3人の子供を抱え、会社務めもしたことがない状態です。当時は、今のように子供がいる女性が働く環境も整っていない状況で、本当につらい大きな決断だったと思います。それから、8年後、会社もなんとか軌道にのり、これ以上、片瀬海岸から新橋まで通うのは大変だということで、小学校5年生の時、東京へ引っ越してきました」
家族を支えるため、朝早くから夜遅くまで働き疲れ果てるお母さまの姿を見ていた田巻さんは、社長業というものに対して“怖い”という思いしかなかった。とおっしゃいました。
ですが、少しでも長く忙しいお母さまの側に居たいという想いもあり、高校の頃からアルバイトとして玉木屋で接客を始めます。
「お店に関わろうというのは、子どもの時にあまり一緒にいられなかった分、母に甘えたいという想いもあったのかも」
結局お母さまの助けになりたいと、学校を卒業後、玉木屋に勤めることになります。
「店頭の現場で働いているころは、社長にほめてもらえることも多かったのですが、私が営業に携わり会議にでるようになると、意見が対立することも多くなり、また、あまり公私をしっかり分けたがらない母でしたので、私自身が、どう接してよいのかとても悩むことが多くありました。 母でもあり、社長でもあるので、その切り分けが難しかったです。そして、家に帰っても、社長がいる。家でも公私がはっきり分かれておらず、家庭の話題から、急に仕事の話になることなど当たり前でしたので、いまは母として話しているのか、経営者として話しているいのか、同じ顔なので(笑)判別することも難しかったのです。 家族なので、仕事のことで意見がぶつかると、お互い遠慮ができないんですよ。家業で自営業のところは みなさん似たような経験が必ずあると思います。」
とはいえ、お母様のなかでは、会社は恭子さんにお任せしたいと考えていらっしゃったようです。当初は、2020年に代替わりを想定されていましたが、新型コロナウイルスの流行が発生。いくらなんでも未曾有の事態でバトンタッチは社長として無責任であろうと、いったん事業承継は延期となり、翌2021年、恭子さんが10代目を継ぐこととなりました。
「私が継いでから、母は仕事にまったく口を出さなくなったんです。また、姉の麻衣子専務は、総務経理を見ながら裏方をしっかり支えてくれています。お陰様で変な話ですが、継いでしまってからのほうが、精神的には楽になりましたね」
と、笑われていました。
伝統に固執せず佃煮の可能性を追求し続ける
玉木屋では、老舗だからと特定の味付けにこだわることなく、時代に合わせた味の調整にも果敢に挑んでいらっしゃるそうです。
「昔の佃煮は、本当に震えるくらいしょっぱかったんです。ですが、人々の味の好みの変化もあり、当店の佃煮も30年前よりかは明らかに、薄口にはなっていっています。世の中の佃煮屋は、時代にあわせた甘口となり、口当たりの良い甘味料たっぷりの佃煮を提供しているところが多くなっていきました」
昔からの味を求めてくるお客様も大事にしなければならないが、こうした時代の変化を敏感に感じ取る柔軟性が大事だそうです。玉木屋の佃煮は、それでも世間と比べれば辛口なのだそうですが、女性の方や、塩分を気にされる方向けに「白佃煮」という商品も新たに作っていらっしゃいます。
ですが、それだけでは佃煮を食べる機会がない方に商品を手に取ってもらうことは難しいそうです。
「我が家では幼い頃から佃煮が食卓に並んでいました。ですが、佃煮が食卓に上がってこない時代になった。若い方の佃煮離れが加速しているのです。佃煮に触れてこなかった世代は、佃煮の食べ方がわからない。おまけに、海産物の値段が上がっちゃっているから、なかなか手が出ない価格になってしまっているでしょう?」
田巻さんは令和の新しい佃煮を生み出せないかと試行錯誤を始めたそうです。
「母が代表だった時代、10年くらいかけて佃煮の技術を使ったソフトタイプのふりかけを開発したのです。防腐剤も保存料を使わずに半生の食感を残したものです。これを販売したところ、大変、ご好評をいただいたんです。母は、このふりかけの技術をさらに推し進め、グリーンカレーやイタリアントマトといった世界の味を楽しめる“世界のふりかけ”シリーズを開発。これがヒットし、テレビでもたびたび紹介される人気商品となりました」
ふりかけという形にすることで、佃煮で世界の味を日本の家庭に広げたお母さま。それならばと田巻さんは、世界の食卓へ佃煮を広げることを考え始めます。思いついたのが、ワインと合わせるということでした。
「別に私がワイン好きだったというわけではないんですけれどね。佃煮にない油脂類と合わせると、マリアージュが起こるのではないかと考えました」
佃煮とワインと言われても、佃煮を食べなれた日本人舌の私には、合うようには思えません。すると、田巻さんは
「魚介とオイルの組み合わせですので、アンチョビやオイルサーディンを想像してもらえば」
と仰ってくださいました。なるほど、それなら想像がつきます。
この、ワインと合わせるように開発された商品は、外国人はもとより日本人にも好評。生産分はすぐに売り切れてしまうそうです。現在は、2024年の秋に、次の弾が出来上がるのを待っている状態になっています。
また、佃煮をお土産にもらってもどうしていいかわからないという方に喜んでもらえるように、佃煮を使った新たなレシピも発信していらっしゃいます。店頭の飲食スペースでは、おにぎりワークショップのような試みも開催していらっしゃるそうです。
「それこそ、佃煮をアンチョビのように調味料感覚で使っていただければ。ミネラルとカルシウムもたっぷりですし」
例として教えていただいたのメニューは、カッペリーニパスタに、葡萄アサリの佃煮を絡めオリーブオイルをまわしかけ、レモンを絞るというパスタ。確かに、塩気も十分効きつつさっぱりしておいしそう!細麺のカッペリーニなので、ツルっとのど越しよくいけそうです。
国内外に広がり始めた佃煮市場
さらに田巻さんは、ECサイトのテコ入れも開始します。玉木屋ではかなり早い段階からECサイト自体は開設していたものの、特に力を入れていたわけではありませんでした。そこで田巻さんはECサイトの運営会社が主催されているセミナーに参加。ご自身の勉強だけでは至らない点に関しては、外部の制作会社にも協力をお願いし、HPの全面リニューアルを決行します。
「コロナが発生する前の2018年ごろからテコ入れを始めました。早めに取り掛かっていたおかげで、コロナ禍にはテコ入れが間に合いました。現在は、ECサイト経由の月商は以前の10倍以上に伸びています。ECサイトの技術や規約は頻繁に切り替わるため、勉強の連続で大変ですけれど」
こうした、田巻さんの改革が奏功したかどうかはわかりませんが、最近は欧米の方がお店に多く訪れるようになったのだとか。
「それまでの佃煮店には、アジア圏の方こそ訪れてくれることはありましたが、欧米の方はまず来られませんでした。それが、最近は欧米人がお店を訪れて佃煮を買っていくんです。時代は変わったんだなあと考えさせられます。聞いたところによると、どこで知ってくださったのか、当店の”葡萄あさり”という製品が”葡萄山椒”という希少な山椒を使用しており、それをスパイス関連のメディアが記事で紹介してくれていました。ありがたいなと思います」
時代に即して変化させるからこそ決して信頼は裏切らない
佃煮は、やはり、江戸前の海で取れた魚介類があってこそ発展してきた食べ物です。しかし、環境の変化もあり、現在東京湾の魚介類を玉木屋さんの佃煮に使うことはなくなってしまっているそうです。
「東京湾の魚が使えたのは、1979年位の頃まで。天秤棒を担いで、汐留で獲ってきたアサリを買い取ってくれと言ってきたことがあったと聞いています。おそらく、それが最後じゃないでしょうか?」
現在は、東京湾で操業する漁業者も少なく、佃煮店が欲する大量の魚介類を東京湾から供給するのは難しいのでしょう。ちなみにアサリは、他の業者と同じように、中国のアサリ養殖工場から仕入れているそうです。しばらく前、日本国内のアサリのほとんどが、中国で生産されているとニュースで知りましたが、佃煮のような、伝統食にもその波が押し寄せてきているんですね。
「そのうち、日本国内でまた、たくさん獲れるようになったらいいですけれどね」
とはいえ、世界中から集めた最高の食材を丹精込めて佃煮に加工する工程はかつてと同じです。
「ここに移転する前に新橋1丁目にあったお店では、その昔、祖父が小僧時代のころまでは店内で職人さんが製造をしていたと聞いています。その後、清澄庭園のそばに工場を作りましたが、母の代になり、千葉へ工場を作りました。職人さんたちは現在そちらで製造を行ってもらっています。」
工場化を進められているということは、簡単にオートメーションできそうなのに、そこは、職人さんの技術が最後は輝くんですね
「老舗は信用です。工場の中まで一般のお客様は入れない。240年続いているから多少手を抜いても大丈夫ということは絶対にないのです。むしろ、簡単に信用は失墜するものだと思います。だから、職人ともども、絶対にお客様の信用を裏切らないようにこれからも商売を続けたいと思います」
【新橋 玉木屋 新橋本店】
住所:東京都港区新橋4-25-4
時間:10:00~18:30、土・日曜日、祝日は10:00~18:00※飲食カウンターは 9:00〜17:00(L.O.17:30)
定休日:振定休
アクセス:JR新橋駅烏森口より徒歩5分