「桜田」の地名は千代田区だけじゃない!? かつて港区に存在した「麻布桜田町」
「桜田」といえば…警視庁の「桜田門」
「桜田門」――それは千代田区の江戸城跡(現在の皇居の一角)にある門。城の本丸に近い「内桜田門」に対し、正式には「外桜田門」という名称です。ちなみに、「桜田門」の由来は、江戸城の付近を「桜田郷」と呼んでいたことに由来しているそうです。
現在の警視庁は、この桜田門のすぐそばにあるため、隠語として「桜田門」は警視庁を指すこともあるそう。なんだか刑事ドラマ(ミステリードラマ)の中のお話のようですね。
かの大事件「桜田門外の変」もあった
江戸時代の万延元年(1860年)、ひな祭りの3月3日に、この桜田門外で大老・井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました。それ以前に、井伊直弼は「一橋派」や「尊王攘夷派」に対して激しい弾圧を行っており(「安政の大獄」)、反感が強まっていたのです。時の最高権力者が江戸城前で浪士たちに暗殺された大事件は、当時の人々に大きな衝撃を与えました。 独裁者として批判されがちな井伊直弼ですが、一説によれば彼が守りたがっていたのは幕府の権威だとも分析されています。しかし、この「桜田門外の変」が江戸幕府の権威を失墜させ、人々が倒幕運動へと突き進む要因の1つになったとは、なんとも皮肉な話です。桜田は港区にもあった
さて、桜田門というと千代田区のイメージが強いですが、実は港区にもかつて「桜田」の地名は存在していたのです。その名をもたらすきっかけとなったのは、なんと鎌倉幕府の初代執権・源頼朝でした。
源頼朝が弟・義経を追討するとともに、奥州平泉の藤原氏を滅ぼした「奥州征伐」。その際、頼朝は鎮守である「霞山稲荷」(現在の櫻田神社)に神領を寄進しました。
神領のしるしとして、頼朝は田の畝(作物を作るため、細長く直線状に土を盛り上げた場所)に桜を植えた逸話が伝えられています。後々、その桜の樹が生い繁ったことから、「桜田」と呼ばれるようになったそう。江戸城跡の「桜田門」とは、まったく違う由来だったのですね。
余談ですが、この「霞山稲荷」は、警視庁や警察庁、外務省などが建ち並ぶ「霞が関」の由来になったと言われます。しかも、幕末に新選組の1人・沖田総司がお宮参りしたことから、「沖田総司ゆかりの神社」としても知られているのだそう。なんと情報量が多い神社でしょう……。
この桜田あたりに住んでいた人たちは、寛永元年(1624年)、江戸城をつくる都合で、現在の港区新橋一丁目や六本木六丁目、西麻布三丁目などに移ってきました。そのため、町名に「桜田本郷町」や「麻布桜田町」と、桜田の名が残ったのです。
その後、昭和7年(1932年)に区画整理が行われ、さらに昭和42年(1967年)の住居表示がされたことで、残念ながら港区から「桜田町」の名は消えてしまいました。
もし現存していたら、江戸城ゆかりの「桜田門」(千代田区)と源頼朝ゆかりの「桜田」(港区)、それぞれ異なる由来を持つ桜田が東京都内にあって、面白かったかもしれません。
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