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港区の坂・「なだれ坂」

2024年1月12日

六本木で土砂崩れが起きていた?

なだれ坂は、六本木一丁目駅から徒歩3分。六本木三丁目のあたりになだらかに続く坂道です。テレビ東京のビルがあるため、比較的観光客もよく見かける坂ですが、つい数年前までは周囲に住宅街が広がる六本木らしくない通りでした。坂の雰囲気がかわったのは2016年。六本木グランドタワーオープンにより、一気に近代的な雰囲気となりました。

現在の坂の入り口

坂の入り口にある説明看板には以下のような文言が書かれています。

なだれ坂  流垂・奈太礼・長垂などと書いた。土崩れがあったためか。 幸国(寺)坂、市兵衛坂の別名もあった。

いまや、世界有数の近代的な都市である六本木エリアで土崩れがあったかもというのは意外です!

古い地誌に見当たらない土崩れ説……

土崩れの被害がどの程度の規模だったのか気になったので、江戸時代の地誌を国会図書館で紐解いてみました。

まず調べてみたのは『府内備考』。江戸幕府が編纂した江戸に関する官撰の地誌で、文政9(1826)年~天保9(1838)年にかけて作成されています。

なだれ坂のことが記されているのは、この本の75巻。

出展:三島政行 ほか『府内備考』巻75-78,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2553684 (参照 2024-01-11)

ここには

流垂 市兵衛町より赤坂氷川社の方へ下る坂をいふ

と記されるのみで、特に土砂崩れの事については書かれていません。

江戸幕府は公式見解として、土砂崩れについて把握していなかったのでしょうか?

『府内備考』が成立してからおよそ60年後の明治29(1896)年から明治44(1901)年まで、雑誌『風俗画報』の臨時増刊として『新撰東京名所図会』という地誌が発売されていました。こちらでもなだれ坂の由来を発見しました。

『新撰東京名所図会』は江戸時代の大ヒット観光ガイドブックであった『江戸名所図会』の体裁をとりながら、文明開化後の東京の名所も加えて紹介した本です。『府内備考』より細かな情報を、様々な文献や地域住民の声をもとに編集しており、記事によっては根拠とした江戸時代の書物の名称もきちんと明記されています。調べものにはとても便利な本です。

こちらの本のなだれ坂の記述では、府内備考の内容に加え、その他の情報も記載されていました。本の中面の画像は掲載できませんが、国立国会図書館のアカウントがあれば、以下のURLから該当記事は読めます。( 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9641004 (参照 2024-01-11))

本文を抜粋しますと以下のような記述となります。

市兵衛町二丁目より今井町と箪町との間を下る坂あり、なだれ坂と称す。
府内備考に云、流垂、市兵衛町より赤坂氷川社の方へ下る坂をいふ、那だれ、市兵衛町より相馬家の屋敷の方へ下る所。相馬家とは相馬大膳亮※1の中屋敷にして、今、今井町四十番の地なり。この坂は善学寺、円林寺前の坂とす。なだれの義は、勾配強からずして、斜めに傾きたるを、邦語、なだれ(言海※2に長垂の意かとあり)といへるより、蓋し、地勢上に得たる名なるべし。

※1相馬大膳亮(そうまだいぜんのすけ)。現在の福島県相馬市一帯を治めていた相馬中村家のこと。実際に大膳亮の官位を得ていたのは、初代相馬利胤と二代目相馬義胤のみ
※2言海。大槻文彦の著した国語辞典。 明治24(1891)年に初版が発行された日本初の近代的スタイルの国語辞典

 

『新撰東京名所図会』では、土砂崩れから来た名前のことは触れられておらず、「そののぼりの緩やか(なだらか)なことからつけられた名前であろう」としていました。区の看板が「土崩れがあったためか。」と曖昧に掲載しているのは、もしかして、はっきりした証拠が見つからないから??

もちろん区の調査は、きちんとした学者の方々が行っております。そんな学者の方々が土崩れ説を看板に載せたということは、地元にはこれに近しい伝承があったということでしょうか?

素人調査ではこれが限界でした。どなたか、なだれ坂で起こった土崩れの記録について詳しいことをご存じの方がいらっしゃいましたら、情報をお待ちしております!

お寺が連なっていたテレビ東京の前

土崩れについて調べきれず悔しかったので、看板に書かれていた幸国(寺)坂、市兵衛坂といった別名称の由来についても調べてみました。

まず、市兵衛坂について。こちらは先述の『府内備考』の流垂の説明にも

市兵衛町より赤坂氷川社の方へ~

とあるとおり、町名から付けられた坂でしょう。ちなみに、市兵衛という人物が誰なのかもわかりました。

出展:武懐山子 輯著『改正新編江戸志 : 10巻』[8],河合孫太郎 写,天保3(1832). 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2545219 (参照 2024-01-11)

こちらは、『新編江戸志』という天保3(1832)年に刊行された地誌です。

市兵衛町 所の名主の名なり 黒澤市兵衛といふよし

この町の名主の名前が地名に残ったようです。黒沢市兵衛については『府内備考』にはさら詳細が載っており、慶長19(1614)年にこの近辺の名主を務めていた人物だそうです。『新編江戸志』が刊行される200年以上前の人物が町名に残るとは、そうとう偉大な名主だったのでしょうか。

もう一方の幸国(寺)坂については難航しました。

幸国寺というくらいですから、坂の周辺にお寺があったのだろうと勘ぐって調べてみたのですが、現在のなだれ坂の周りにあるお寺は、善学寺と真宗圓林寺の2寺のみ……。

それなら、江戸時代にお寺があったのではと、国会図書館の古地図を当たってみたもののいっこうに見つからず時間のみが経過していきました。

結局、2時間近く国会図書館の古地図と睨めっこをした結果……ようやく、寛文13(1673)年の地図にて「カウコクジ(幸国寺)」というお寺を発見!

なんと今から350年近く前の地図を最後に姿を消したお寺が、幸国(寺)坂の由来だったようです!

出展:遠近道印 [作]『新板江戸外絵図. 赤坂,麻布,芝筋,渋谷,青山,三田』,経師屋加兵衛,寛文13 [1673]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2542418 (参照 2024-01-11)

このお寺の前の通りが現在のなだれ坂。北の部分は現在テレビ東京です。

寛文の地図を見ると、テレビ東京の前には左から

・ホウヲン寺
・大せンシ
・カウコクシ
・新ぜウシ
・エン子ンシ
・ぜンカクシ
・ゼウエン寺

と7つもお寺が並んでいたことがわかります。
数あるお寺の中から、どうして幸国寺が坂名に選ばれたのか?江戸時代のテレビ東京前が一大寺町であったことが判明したと同時に、また、新たな謎にぶち当たってしまいました……。

こちらについてもご存じの方がいらっしゃいましたら、情報をお寄せください!!

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