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「青山」の由来となった一族・青山家

2023年8月10日

「青山」っていったい何のこと

全国的に名前が知られる港区の青山。おしゃれなブティックや美容室、日本を代表する企業の本社などが集まる町というイメージですが、町には山と呼べるような小高い土地はありません。実は「青山」という地名は、この地に屋敷を構えた大名の苗字からつけられたと考えられています。

家康最古参の家臣・青山忠成

その大名とは、青山忠成(あおやまただなり)。徳川家康の家臣のなかでも最古参の一人で、初期江戸幕府の老中を務めた人物です。家康が若武者だった時代から仕えていたため非常に信頼が厚く、2代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)の教育係も任されていました。

1590 年。家康は、関東に移ってきた際に忠成を江戸町奉行へ任命しています。これは江戸の町の、行政・司法長官にあたります。現在の東京の都市計画の最初の一歩を踏み出したひとりということになります。

家康はこの大役を任じるにあたり、忠成に5000石の領地を与えています。この土地は、現在の赤坂から、渋谷の一部までにあたる広大なものでした。とはいえ実際には、雑木林が広がる森だったようですが忠成はこの地に広大な別荘を立てました。この屋敷が建ったことにより、「青山」が一帯の地名として定着していきました。

ちなみに、忠成がこの土地を拝領したことに関して面白い伝説が残っています。現在の赤坂御所のあたりで鷹狩りを行っていた家康は、西の方を指さしながら「馬で一周走った分だけの土地をやる」と言いました。忠成はこれを真に受け、馬が倒れ死ぬまで走り回りこの広大な土地を手にする権利を得たというのです。しかし、当時の青山は、江戸城から離れている上あまりにも未開拓。不憫に思った家康は、他の土地と変えようかと打診しました。忠成は「家康様のご威光によりやがてこの地も大きく発展していくでしょう」と、この申し出を辞退しました。忠成の狙い通りなのか、偶然なのか。後にこの地の中央に、神奈川県大山までつながる街道(青山通り)が伸びました。青山は、宿場町として発展し青山は繁栄していくこととなりました。

 

『江戸切絵図』より 「青山渋谷絵図」
写真提供:国立国会図書館

 

青山で開催される郡上おどりの謎

実は、江戸時代を通じてひとつの土地を安定して守りぬくことができた大名というのはそう多くありません。後継ぎが生まれなかったり、政治上のミスをしてお家取りぶしにあったりして、転封・減封をされるというのは日常茶飯事でした。とはいえ、国内に統治者のいない政治上の空白地帯ができることはよろしくありません。こういった時に便利に使われたのが、家康時代から仕える譜代大名たちでした。

特に領地が10万石に満たない小規模大名は、頻繁に領地替えをくらっています。実際青山家も、江戸崎藩(現在の茨城県稲敷市)、武蔵国岩槻藩(同・埼玉県さいたま市岩槻区)、信濃国小諸藩(同・長野県小諸市)、浜松藩(同・静岡県浜松市)、亀山藩(同・京都府亀岡市)など転封を繰り返していました。最終的には、篠山藩(同・兵庫県丹波篠山市)に移封され、廃藩置県を迎えています。

忠成の四男・青山幸成(あおやまゆきなり)は、1633年に掛川藩(現在の静岡県掛川市)の統治を任され藩主となり、宗家から独立した青山家の分家となりました。青山宗家は、広大な土地の南側を、この幸成系青山家に分与しています。現在の青山墓地のあたりです。幸成系青山家は、その後、尼崎藩(同・兵庫県尼崎市)、飯山藩(同・長野県飯山市)、宮津藩(同・京都府宮津市)を経て、郡上藩(同・岐阜県郡上市八幡町)の藩主として明治を迎えました。

ところで、1994年から、日本三大踊りのひとつに数えられる岐阜県郡上八幡の「郡上おどり」が、青山で行われています。1万人以上が集まり、青山を代表する盆踊りとして定着しています。なぜ、青山で岐阜県の盆踊りが行われているかご存じない方もいるかもしれません。これは、郡上藩の藩主であった幸成系青山家の菩提寺が、青山にある浄土宗のお寺・梅窓院であった縁から始まったイベントなのです。

「青山」のルーツは群馬県?

では、青山家は、いつ青山と名乗り始めたのでしょう?

1789年~1801年にかけて江戸幕府により編纂された『寛政重修諸家譜』という書物があります。江戸幕府に仕えていた大名や旗本の家系図をまとめた全1530巻にも及ぶ記録です。

この中の青山家の系図には、青山家が青山と名乗り始めた時代が記されています。時は江戸時代からさらに室町時代にまでさかのぼります。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の孫にあたる尹良親王(ゆきよししんのう)に仕えた花山院師重(かさんいんもろしげ)という侍がいました。南北朝合一後も室町幕府への帰順を拒んでいた尹良親王は、南朝側の有力武将だった新田氏を頼り、1380年代に上野国(現在の群馬県)に下野したそうです。花山院師重もこれに同行し、結局上野国にそのまま土着。青山と名乗り始めたと書かれています。

尹良親王は実在に疑問が持たれている人物ではあるのですが、現在も実際に群馬県吾妻郡中之条町には、花山院師重改め青山師重ら一族が暮らしていた「青山」という地名が残っています。ここが、港区青山のルーツと言っても過言ではなさそうです。その後、室町時代の関東の動乱の中で青山家の一族は三河へ移り住み、松平家(後の徳川家)に仕えるようになったのです。

中之条町を通る国道353号線は、港区とまったく同じように、青山家に由来する「青山通り」の名が付いています。

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