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北青山三丁目再開発で発掘された遺跡とは?青山師範学校の痕跡を現地レポート

2026年2月17日

北青山三丁目地区第一種市街地再開発事業は、港区の北青山3丁目(表参道駅・外苑前駅の間)で進められている大規模市街地再開発プロジェクトで、都市機能の更新・強化と魅力ある複合都市空間の創出を目的とした事業です。

我々青山エリアの住人としては隣地の「ののあおやま」の完成によって、ランチできるスポットが増えたことが本当にありがたいです。

そんな「北青山三丁目地区第一種市街地再開発事業」ですが、現在工事の真っ最中です。

実は、以前から近隣の住人の間で
「あの再開発エリアでは、何やら発掘調査を行っているらしい」
という話を聞いていました。いざまちで以前、「北青山三丁目地区第一種市街地再開発事業」のことを取材させていただいた際も「遺跡の調査を行っていて……」というような話は伺っていました。いったい何が埋まっているのでしょうか。

もやもやした気分で過ごしていたところ、2025年末、再開発を担当している独立行政法人都市再生機構様より、「北青山三丁目遺跡見学会」のご案内をいただきました。

ということで、朝は霜が降りるくらい寒かった令和8年1月24日(土)、表参道駅より徒歩6分の再開発現場……改め発掘現場に出向いてみました。

125年前、青山にあった師範学校の記憶を掘り起こす

「北青山三丁目遺跡(港区No.192遺跡)」と名付けられた今回の調査地は、平成29年(2017年)にも一度調査が行われており、その際には縄文時代から近世・近代にかけて、幅広い年代の遺物が発見された場所だそうです。今回の調査は2023年8月から始まり、これまでに旧石器時代、縄文時代、古代~中世、近世、近代の遺構・遺物が確認されています。公開されたのは、最も新しい近代の遺構ですが、興味深いものが多数見つかったとのことでした。

明治33年(1900年)からこの地に「東京府青山師範学校」があったことは、いざまちの取材を通じて伺っていました。今回公開されていたのは、その師範学校の遺構です。

東京府青山師範学校
出典:東京府 編『東京府史』行政篇 第5巻,東京府,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1686821 (参照 2026-02-04)

師範学校とは、明治以降に設置された教員養成のための学校のこと。卒業生は高い確率で教職に就き、学校自体もそれを前提に運営されていたため、授業料の免除や学資の支給といった破格の待遇が用意されていました。この制度によって、貧困のために高等教育を受けられなかった人々にも学びの道が開かれたとされています。私が思い浮かべたのは、計画的な鉄道会社のM&Aによって現在の東急グループを一代で築き上げた実業家・五島慶太が、この学校を足がかりに道を切り開いたというエピソードでした。

建物が建てられたのは今から125年前。縄文時代などの遺構と比べれば比較的最近のものですが、「とても面白い発見が数多くありました」と、学芸員の方は声を弾ませていました。

発掘途中の遺跡を見学するという、好事家向けと思われがちなイベントですが、私が参加した回だけでも子ども連れから高齢の方まで約50人が参加しており、その盛況ぶりに驚かされました。青山で遺跡が見られるという点も、話題性が高かったようです。

肝心の「東京府青山師範学校」ですが、昭和11年(1936年)には世田谷区下馬へと機能を移転します。残された校舎は、東京府立中学校などの校舎として利用されてきましたが、昭和20年5月24~25日に一帯を焼き尽くした山の手空襲によって、木造建築は焼失してしまいました。つまり、記録や写真、図面は残っているものの、実物を目にした人はすでに少なくなっているというわけです。

今回の調査で明らかになったのは、明治33年の建築当時に用いられた校舎基礎部分の工法でした。最初に見学できたのは、残存する設計図面に描かれていた寄宿舎の部分。当時、師範学校は全寮制を採用しており、この建物には食堂なども併設されていたそうです。明治の職人たちが、伝統的な技術と当時の最新技術を組み合わせて築き上げた基礎の上で、生徒たちの青春が営まれていたのだと思うと、胸に熱いものがこみ上げてきます。

土木工事で基礎を固める際、まず地盤を安定させるために割栗石と呼ばれる石を敷き詰めますが、この割栗石の使い方に特徴が見られました。城の石垣を組むかのように、大きく尖った石をしっかりと地盤に打ち込んでいたのだそうです。

一方、その上に流し込まれたコンクリートの質は低く、経年劣化によって砂のように崩れてしまっている箇所もありました。明治から大正期にかけては、日本だけでなく世界的にもコンクリート工法が始まったばかりの時代。現代の基準で見れば、技術がまだ未熟だったのかもしれません。

興味深かったのは、そのコンクリート基礎の上に煉瓦が敷き詰められていた点です。現在では基礎や床下部分にそのままコンクリートを用いるイメージがありますが、当時は煉瓦が使われていたのですね。

発掘されたコンクリートの基礎部分。上に載った煉瓦もはっきり残っていた

「実は、今回の発掘調査では不思議なものが見つかりました」
そう言って、基礎部分の解説をしていた学芸員の方は、さらに一段低い位置に掘られた深い穴の中へと降りていきました。

柱を打ち込む基礎よりもさらに深い部分に掘られていた待避所

「ご覧の通り、この穴は深く広く、大人でも3人ほど入れるスペースがあります。こうした穴があちこちに作られていました。穴の底へ降りるための階段も設けられていますが、これだけの空間が設計図や記録に残っていないのは不思議でした。調査の結果、この穴は第二次世界大戦中に作られた“待避所”であることが分かりました。看板をよく見ると、“退避”ではなく“待避”の字が使われています。空襲で焼夷弾が落とされると、生徒たちは一時的にこの穴に避難します。しかし、ここでは“待たされる”のです。空襲が収まったら、外に出て燃え盛る建物の消火活動に当たる──そういう目的の穴だったのです」

もし入口が瓦礫で塞がれてしまったら、中にいる子どもたちは生きたまま蒸し焼きになってしまうのではないか。一酸化炭素中毒の危険もあったはずです。次々と焼夷弾が落とされるなか、水の入ったバケツを抱えて待避所で震える子どもたちの姿が、否応なく思い浮かびました。
説明をしてくださった学芸員の方も同じ思いだったのでしょう。少し涙ぐんだその表情が、強く印象に残りました。

基礎と配管が語る、明治建築と増改築の足跡

次に我々は、隣の発掘区画へ案内されました。そこでは校舎の端部にあたる基礎や、水道管の遺構が発掘されていました。上水道管と下水道管がそれぞれ確認されていましたが、興味深いのは、下水管には常滑製の土管が使われている一方で、上水管には明治32年にベルギー・リエージュで製造された金属管が用いられていた点です。

上水菅は一本に対し、下水管は複数引かれたうえ、排水桝でまとめられるような設計になっていた

肉眼で確認はできなかったが、製造元が記された配管の拡大写真がパネルで展示されていた

金属管は、明治時代当時の国内技術だけでは十分な品質を確保できなかった、ということなのでしょうか。

「こちらの基礎部分は校舎のちょうど端にあたります。先ほどご紹介した寄宿舎と同様の基礎工法が確認されました。一方で、隣の建物跡の基礎を見ると、興味深い違いがあります。この建物は当時の図面に記録が残っていません。割栗石は小ぶりで簡易な施工ですが、その上に載るコンクリートは非常に強固です。明治33年より後に建てられたものであることは間違いなく、増改築によって新たに建てられた建物がここに存在していたのでしょう」

今回の調査で判明された増築された建物の基礎部分

基礎工事を見るだけで、そこまでのことが分かるとは驚きです。

なお、見学ルートは鉄板によって簡易舗装されており歩きやすかったのですが、土が露出した遺跡部分は周囲のビルの影になっていることもあり、地面が凍り付いていました。青山でも、日陰では地面が凍結するほど冷え込むのだと知り、改めて驚かされました。
最近まで大きなアパートが建っていて地盤が固まっている場所に、さらに氷が張るとなると、重機を使った掘削も難しいはずです。発掘調査に携わる学芸員の方々のご苦労が、身にしみて感じられました。

なお、現在進められている師範学校跡の調査が一段落した後は、さらに下層を掘り進め、近世、すなわち江戸時代の地層調査が行われる予定だそうです。この一帯は江戸時代、鉄砲隊の屋敷が置かれていた地域であり、武家屋敷の遺構が多数出土する可能性が高いとのこと。

遺跡の発掘現場に直接入り、学芸員の解説を聞きながら見学できる機会は、そう多くありません。幼い頃には歴史学者になりたいと思っていたほどの歴史好きとしては、武家屋敷跡の見学会が開催されるようであれば、ぜひまた参加したいと思います。

発掘現場の全図を上空から映した写真も展示されていた

教室で使われていたチョークや

食堂で使われていた食器など、学校生活が営まれていたことを証明する出土品の数々

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