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江戸の繁栄を支えた「水」。玉川上水だけじゃない! 青山や麻布を支えた知られざる上水の謎に迫る

2026年2月13日

260年の平和を保ち、世界有数の大都市へと発展した江戸。

その成長を支えたひとつとして、将軍や大名だけでなく、庶民も利用できた「上水(じょうすい)」と呼ばれる充実した水道インフラがあります。

なかでも、多摩川の水を現在の羽村市から江戸の街へと運んだ「玉川上水」は、全長40kmを超える大規模な水路として知られ、近年では世界遺産登録を目指す動きも。

江戸の上水と言えば、玉川上水や神田上水を思い浮かべる人も多いかもしれませんが、実は港区の青山や三田エリアなどにも、かつて江戸の人々の生活を支えた上水が存在していました。しかし、いざ調べてみてもなかなか詳細な情報が見つからず……。

分からないことはプロに教えてもらおう! と、東京都水道歴史館の企画調査責任者・金子智さんに江戸の上水について教えていただきました。

江戸の人々を支えた「江戸の六上水」とは

「上水」とは、さまざまな水源から供給される飲料水のこと。今で言う「水道」です。

まさに網目! 江戸の水道網

争いのない天下泰平の世でもあった江戸時代。急激に人口が増加し、江戸の街も大きく発展するなかで、大きな問題のひとつであったのが「飲み水の確保」です。海に近く、埋め立て地も多かった江戸の街では、井戸を掘って良質な飲み水を確保するのが難しい土地条件でした。

江戸の六上水が描かれた地図。「東京市史稿 上水篇 附図」より

そんな江戸で人々を支えたのが、6つの上水。

・神田上水
・玉川上水
・本所(亀有)上水
・青山上水
・三田上水
・千川上水

古代ローマには「ローマ水道」と呼ばれる大規模な石造りの水道がありましたが、将軍や大名だけでなく庶民も利用できるなど、高いインフラ機能を誇っていたのが、江戸の上水の大きな特長のひとつです。

江戸の街を支えていた「玉川上水」と「神田上水」

「江戸の六上水」のなかでも中心的存在だったのが、「神田上水」と「玉川上水」です。
実は江戸時代初期の上水に関する公式記録はほとんど存在していませんが、慶長年間(1596~1615年)には、2つの上水が存在したらしいということが分かっています。

それが、「神田明神山岸の水」と「山王山本の流」。
神田明神山岸の水は現在の神田上水、山王山本の流は赤坂のため池を水源とした溜池上水と考えられています。

あれ、玉川上水は? と思うかもしれませんが、実は玉川上水は、溜池上水が水不足&水質悪化に陥り、江戸城などへの給水を目的に、承応3(1654)年に設けられた少し新しい上水なんです。

40㎞超の距離を誇る玉川上水

神田上水は神田川が水源ですが、玉川上水は現在の羽村市から、なんと全長40㎞超の距離をかけて、江戸の街に水を運んでいました(ちなみに玉川上水の上流の一部区間はまだ現役なんですよ!)。

「上水記 巻2 玉川上水水元絵図並諸枠図」国立公文書館デジタルアーカイブ

当時は現在のような送水ポンプが存在しなかったため、重力に従って高低差を利用して水を送ることしかできません。ですが、実は羽村から江戸の街への高低差はわずか100m弱。このわずかな高低差を最大限に生かし、40㎞を超える上水を作り上げたのです。当時の人々の知恵と技術力、感動すら覚えますよね。

玉川上水開削の指揮をとった玉川兄弟

玉川上水の開削を率いたのは、玉川庄右衛門と清右衛門。「玉川兄弟」として知られている2人です。工事は困難を極めましたが、承応2(1653)年に着工し、承応3(1654)年には江戸市中への配水を実現させています。

ちなみに工事中、幕府と「完成したら悪いようにはしないから、悪いけど今は費用建て替えておいてくれない?」というやり取りもあったとか。「公式な記録に残っているわけではありませんが、玉川兄弟のご子孫に言い伝えられている話なんですよ」と金子さんが教えてくれました。

江戸時代の上水工事、事業者はコンペで決められていた!

江戸時代の上水を管轄していたのは、江戸幕府です。工事だけでなく、今で言う水道料金の徴収も行っていました。

江戸の水道制度は、とても体系的な仕組みが機能していました

ということは、これらの上水工事をしていたのは、やはり江戸幕府お抱えの業者だったのでしょうか?
金子さんに聞いてみると、実はコンペのような入札形式で発注先が決められていたとのこと。

「記録を見ると、幕府が仕様を提示して入札させ、一番安い金額を提示した“●●屋さん”などに依頼していたようです。金額が折り合わない場合は、幕府が直接工事していたこともあるみたいですよ」

慣れ親しんだ入札システムが、江戸時代から存在していたことに驚きです!

約60年しか使用されなかった「青山上水」「三田上水」

では、いよいよ「青山上水」「三田上水」に迫ります。青山上水と三田上水は、玉川上水から分水された上水。

万治3(1660)年に分水された「青山上水」は、現在の青山や麻布近辺に水を送っていました。地図を見ると、青山上水の先に増上寺の文字が。

青山上水の先に増上寺の文字も

先日の練塀勉強会でも金子さんが教えてくれましたが、増上寺にも水を供給していたと考えるのが自然かもしれません。

▼増上寺と上水についてはこちらの記事で紹介しています
江戸時代の水道技術に感動! 城郭の土塀から見える時代背景とは?【行ってきました!】練塀勉強会vol.7

また、当時の地図を見ると、「三田上水」は2本あります。

「上水を辿ると、そのうちの1本は細川越中守の屋敷に専用の上水が引かれているんですよね」とのこと。なんと、上水のうち1本は、お殿様専用!

玉川上水から分水している上水は、青山上水と三田上水、千川上水があります。ほかに、元荒川から分水した亀有(本所)上水も。
しかしこれらの上水は、享保7(1722)年に一斉に廃止されてしまいました。

4つの上水が廃止された理由は?

「青山上水」「三田上水」「亀有(本所)上水」「千川上水」は、広く江戸庶民に飲み水を供給していましたが、なぜ享保7(1722)年に一斉に廃止されたのでしょうか?

上水が利用されていた期間が一目で分かる年表

理由として、おそらく享保元(1716)年から行われた8代将軍吉宗による「享保の改革」が関係している、と金子さんは言います。

「当時は東京西部(玉川上水の上流エリア)で新田開発が推奨されていました。そのため、農耕のために上流近辺でたくさん水を使う必要がある。廃止された上水のうち3つは玉川上水からの分水なので、江戸の街よりも新田開発に回したかったんでしょうね」

そしてもう一つ、興味深い理由も言われているそう。

「江戸時代の儒教者室鳩巣(むろ・きゅうそう)が、『市中に上水を巡らせると地の神様が苦しんで風を起こし、火災を誘発する』と建言し、幕府に受け入れられたという説もあります」

上水は地中に「木樋(もくひ)」と呼ばれる木製の水道管を埋めていたので、地面を掘ることは地の神様がズタズタになってしまう、ということ。

「きっかけのひとつになった可能性はありますが、江戸時代は科学的にも発展していますし、どこまで信じられていたかは疑問ですね」

上水についての公式な記録はあまり残されていないのが現状ですが、時期によっては「あの地域の木樋は何年に埋めた」などの記録がしっかり残っていることもあるそう。

では、なぜ青山上水や三田上水など廃止された4つの上水の記録がないのだろう? と不思議に思っていると、「現在残っている記録が作られた時期には廃止されていた上水なので、記録されていないのでは?」とのことでした。

青山上水や三田上水などが長期間にわたって使用されていたら、もっと詳細の記録が残っていたのかもしれないですね。

上水が廃止されたエリア、市民の飲み水はどうしていた?

素朴な疑問なのですが、青山上水や三田上水などが廃止されたのち、近辺に住む住人達の飲み水はどのように確保したのでしょうか?

「雪のあした」(歌川国貞)

「青山や三田、麻布の辺りであれば、井戸でしょうね。江戸初期に比べて掘削技術も発達しているでしょうし、深くまで掘ることで飲み水を確保できたと思います。大田区や墨田区など、深くまで掘ってもきれいな水を確保できない場所では、飲み水を販売する『水屋』が活躍していました」

「絵暦 水売り」(鈴木春信)Collection: Minneapolis Institute of Art, Minneapolis, Minnesota, USA

また、4つの上水は廃止されましたが、水路自体は3つが残ります(青山上水は全体が暗渠[地下に作られた水路]のため残らず)。そんな水路、実は別の形で活躍していたとか。

「三田上水は、農耕用の水を供給する『用水』として使われています。近辺の人たちが『農業をするために使いたい』と申請して許可が下りたようですね」

江戸では飲み水を供給するのが「上水」、農耕用として使用する水を供給するのが「用水」という訳です。上水と用水、明確に違うことを初めて知りました……。

ちなみに麻布地区には、明治15(1882)~明治17(1884)年の2年間だけ、「麻布水道」という水道が存在しています。この麻布水道も上水と関係あるのでしょうか?

「麻布水道は、地元の組合などが計画して通水させていた水道。水道料を徴収して運営していたのですが、採算が取れなくて短期間で廃止されてしまったようです」

土木技術の高さに感服! 上水がなければ江戸はここまで発展していなかった

東京都水道歴史館の学芸員さんでもありますが、考古学者の顔も持つ金子さん。実は、元麻布ヒルズを建てる前の調査にも参加されており、館内に展示されている江戸時代に使用されていた木製の水道管「木樋」の中には、金子さんが発掘されたものもあるそう。

さまざまな角度から江戸時代の上水について研究されている金子さんに、江戸時代の上水システムについて伺うと、間を置かずに土木技術の高さを挙げられました。

「当時の土木技術は素晴らしいと思いますね。現在は水平を図る『レベル』という器具がありますが、江戸時代も水を使って水平を測る器具『水盛台』などがありました」

『地方測量之図(江戸時代)』葛飾北斎

加えてもう一つ、大事なポイントがあるそう。

「それに、やっぱり江戸の街の礎を築いた、徳川家康から秀忠、家光も優秀だと感じます。玉川上水は4代将軍家綱の時代に着工・完成ですが、計画は3代将軍家光の時代にできていますし。
上水が発達していなかったら、江戸の街もこんなに発展しなかったでしょうね」

3代の間にものすごい街づくりを行った徳川。
先日お邪魔した港区文化財セミナーのお話につながる部分があり、「やっぱり徳川3代までの将軍って素晴らしいんだな」と実感しました。

▼港区文化財セミナーについてはこちらの記事で紹介しています
増上寺「三解脱門」は心の入口? 江戸の平和「パクス・トクガワーナ」を紐解く港区文化財セミナー【行ってきました!】

広重『江戸百景余興 芝神明増上寺』,魚栄,安政5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1312315 (参照 2026-02-03)

いまに受け継がれる、江戸の上水と水道の原点

江戸の街が急速に発展できた背景には、玉川上水や神田上水を中心とした高度な水インフラの存在がありました。そして、青山上水や三田上水などの知られざる上水も、江戸の人たちの暮らしを支えていた大切な存在。

時代の移り変わりと共に姿を消してしまった上水もありますが、料金を支払うことで身分に関係なく水を使えるシステムは、江戸時代から受け継がれています。

「蛇口をひねると水が出る」日常の風景からも、歴史に想いを馳せることができるのだなぁ、と実感しますね。

東京都水道歴史館は港区から少し外れてしまいますが、無料オーディオガイドなども充実しており、視覚的に水の歴史を知ることができる場所ですよ。

東京都水道歴史館
住所:東京都文京区本郷2-7-1
時間:9:30~17:00(16:30最終入館)
休館日:第4月曜日(休日の場合はその翌日)、年末年始
料金:無料

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