
100年途絶えた芝の醸造所が復活——東京の地産地消にこだわった『都市型酒造』の挑戦に迫る(前半)
あなたは“都心3区”のひとつである港区にも、酒蔵があるのをご存知でしょうか?
私はこの編集・制作の業界に入る前は酒造りに興味があり、東京にあるワイナリーや酒蔵を調べていた時期がありました。そのときに出会ったのが、東京港醸造さんでした。
今回、「港区」というご縁から、いざまち編集部として取材に伺うことになり、胸を躍らせながら現地に向かいました。「都心で日本酒を造る」という斬新なコンセプト。過去に別媒体で拝見した取材記事から、会う前からその人柄に強いエネルギーを感じていた杜氏の寺澤善実さん。そして、100年ぶりに酒蔵復活を決断した東京港醸造代表の齊藤俊一さん。このお二方に、じっくりとお話を伺いました。
芝の造り酒屋「若松屋」復活までの道のり
——まず芝の地で酒蔵を復活させた背景について教えてください。
齊藤さん「東京港醸造の母体は、造り酒屋の『若松屋』です。芝の地で文化9年(1812)に創業しました。幕末には薩摩藩の御用商人でもあり、西郷隆盛や勝海舟も訪れたと伝えられています。しかし、明治42年(1909)に4代目が他界をしたことで、若松屋は廃業してしまいました。当時は “酒税”が非常に高く、日清戦争の戦費も酒税で賄われていた時代です。若松屋も、当時のお金で約8,000円(現在の価値で約3,200万円、明治42年の消費者物価指数を元に計算)もの酒税を1年以上滞納してしまったそうです」
その後、齊藤さんは30代で不動産に近い仕事に携わるようになります。
「30歳を過ぎた頃、8軒分の土地をまとめて共同ビルを建てる計画を立て、5年かけて4軒を地上げしました。当時はまだ“地上げ”という言葉も一般的ではなく、バブル直前の時代でした。このビルが完成した頃には完全にバブル期に入り、1坪200万円ほどで取得したビルが、億に近い価格になりました。私はビルの運営と並行して、本業としていた雑貨業にも力を入れて、店舗展開を進めていきました」
——酒造業を離れてからは、雑貨業を営まれていたのですね。
「当時、雑貨業はとても流行った業種で、『小間物(こまもの)屋』と呼ぶ人もいました。平成6年(1994)には、田町駅のセンタービル開発にあわせて田町駅前で雑貨店を開業し、その後この周辺に6店舗ほど展開していきました。
経営は順調だったのですが、ビルの借金は利払いだけ行い元本を後回しにしていたんです。なので、今から20年ほど前、まだ両親が健在だった頃には借金が3億円以上ありました。ちょうど小泉純一郎政権下で、竹中平蔵金融担当相による『不良債権処理』が進められていた頃です」
——当時の金融状況は、どのようなものだったのでしょうか。
「1990年代初頭のバブル崩壊後、日本の金融機関は膨大な不良債権を抱えていました。不良債権というのは、借り手の経営悪化や担保価値の下落などによって回収が困難、あるいは不可能になった貸出金のこと。金融機関の立て直しのため、銀行の抱える債権は “正常債権”か“不良債権”かに振り分けられ、不良債権のほうに分類されてしまうと、会社は容赦なく清算されてしまいました。その足きりのラインが約3億円でした。私どもは別に事業が行き詰っていたわけでもないのですが、このままだと不良債権に分類されてしまう。そこで、私が役員貸付金として会社に入れていた約6,000万を、自己資本金とみなしてもらえるよう銀行と交渉し、ぎりぎりのところで生き残ることができました」
その後、齊藤さんは38年間にわたり雑貨店経営を続けてきたといいます。では、なぜそこから酒蔵復活へと舵を切ったのでしょうか。
「25年ほど前からインターネットが普及し始め、物販業はなかなか成長しづらくなってきていました。私は7代目ですが、『なにか違う形で代をつなげていこうか』と考えたのがきっかけです。子どもが3人おり、真ん中の長男に継がせるにしても、雑貨業は難しいと感じていました。そこで家業の歴史を調べ直し、酒造業を営んでいたことを改めて知りました。ただ、酒造りには広い土地や良質な水、そして免許が必要になってきます。都心で酒造りをすることは、非常にハードルが高いものでした」
「江戸開城」を生み出した都心醸造の開拓者との出会い
そんななか、運命を大きく動かす出会いが訪れます。港区商店連合会(区商連)の事務局を運営していた齊藤さんは、ある杜氏と知り合うことになります。
「当時、お台場アクアシティに、京都伏見の酒造メーカー『黄桜株式会社』のモデル蔵『黄桜台場醸造所』がありました。2000年にオープンし、2009年に閉鎖してしまいましたが、そこに現在杜氏を務めている寺澤が総支配人として在籍していました。黄桜台場醸造所の閉業間際に寺澤と会い、『自社ビルで酒造りをしたい』と杜氏のオファーをしたところ、最初は『絶対に儲かりませんよ』と言われました。それでも『儲からなくてもいい。代をつなげるために酒蔵を復活させたい』と伝え、協力をお願いしました」
日本酒を造るには、醸造技術はもちろんのこと、「清酒製造免許」が必要ですが、戦後、新規取得はほぼ不可能といわれてきました。
「清酒製造免許の新規発行をしない時代とわかっていながらも、日本酒を造りたいという想いは変わりませんでした。芝税務署に毎月通い、酒税課に申請を続けました。まずはリキュールとその他の醸造酒の免許を取得し、2011年に『江戸開城』という純米どぶろく※を造りました」
※どぶろく:米と米麹と水を原料とし、漉さずに発酵させた酒。
江戸開城とは、慶応4年(1868)に明治新政府軍と旧幕府の間で行われた歴史的事件。江戸城が血を流すことなく明け渡されたことから「無血開城」とも呼ばれています。齊藤さんは、かつて若松屋の奥座敷で“開国”や“江戸城無血開城”など文明開化を目指した藩士たちが密談をしていたという歴史と、藩士たちへのリスペクトを込めて「江戸開城」という銘柄名にしたのだそうです。
——しかし、どぶろくを造っても販路が全くない状態ですよね。販路の開拓はどのようにされたのですか。
「私は商店連合会の役員だったので、港区内のお祭りでキッチンカーを出し、1~2年ほど販売していました。ただ、1週間売り上げ0という状況が続いてしまっていました。そこで本格的に清酒製造免許を取得しようということになり、寺澤には免許取得までの冬の間、毎年別の酒蔵で修業をしてもらいました」

「純米どぶろく江戸開城」 画像引用:東京都産業労働局
その後、清酒製造免許取得の手段を調べる中で、「既存の酒蔵を買い取る」という選択肢に辿り着きます。
「岐阜県に、従業員はいないものの設備が揃っている酒蔵があり、廃業する酒蔵の清酒製造免許を引き継ぐことができました。当時、M&Aで酒蔵を再生するという発想は、誰もしていなかった時代でした」
こうして2016年に清酒製造免許を無事取得し、同年8月には東京港醸造初の清酒「純米吟醸原酒 江戸開城」が誕生しました。
日清戦争による大借金や、バブル崩壊後の不良債権処理を乗り越え、戦後初の清酒免許取得へと辿り着いた齊藤さん。「必ず酒蔵を復活させる」という不屈の精神と、前例のない挑戦で若松屋を蘇らせた姿には頭が下がります。
日本酒の未来を見据えたマイクロ・ブリュワリーの先駆けに
——最後に、酒造業界に対して残していきたい想いや、今後のご展望をお聞かせください。
「2024年、日本酒(伝統的酒造り)がユネスコの無形文化遺産に登録されたじゃないですか。そのこともあって今は日本酒が世界中で注目されてきていますが、統計的にみると、売り上げは長年右肩下がりで、酒蔵の数も過去30年間で約900蔵減少しています。バブル崩壊後、大量生産のパック酒が飲まれるようになったことや、時代とともに、ビールやワインなど海外のお酒が広まったことで、蔵元はどんどん衰退していきました。そこで国酒である日本酒を守っていくために我々は限られた敷地で小さくお酒を造っていく方法を見出しました。日本酒に馴染みのない若い世代にもたくさん日本酒を飲んでもらいたいという想いもあり、日本酒ラウンジtpbを展開しています。都心で小さく造る、マイクロ・ブリュワリーのモデルケースとして、酒造業界を支えていきたいです」
酒造業界に新しい風を吹き込んだ東京港醸造。日本酒の未来に希望の光を灯す、都心の酒蔵として歩みを進めています。
記事後半では、その想いをつないだ杜氏・寺澤さんに、東京の水道水を用いたマイクロ・ブリュワリーでの酒造りについて伺います。

港区芝の一角、都心のビルに掲げられた東京港醸造の看板には、「創業文化9年」の文字が輝いています。
【東京港醸造】
住所:東京都港区芝4-7-10(直営ショップ)
時間:月~金曜11:00~19:00、土曜~17:00
定休日:毎週日曜
アクセス:都営地下鉄三田駅「A9出口」より徒歩5分
【日本酒ラウンジtpb】
住所:港区芝4-7-8 芝ワカマツビル10F
時間:火~金曜17:00~22:30、土曜14:00~21:30
定休日:毎週日・月曜、祝日

