知る人ぞ知る港区の歴史的見所も!「白金の清正公さま」最正山 覚林寺
港区白金台、白金高輪の駅から徒歩約10分の距離にある「最正山 覚林寺」。熊本藩の初代藩主である加藤清正公をお祀りし、「白金の清正公(せいしょうこう)さま」とも呼ばれている日蓮宗の寺院です。
あれ?「清正公」って「きよまさこう」じゃなくて「せいしょうこう」って読むの? 白金にあるお寺が、加藤清正公とどんなつながりがあるの? などなど、覚林寺の歴史や知られざる境内の見所について、ご住職に教えていただきました。
知ってた? 清正公をお祀りするお寺は、ほとんどが日蓮宗!
まずは、「清正公」の呼び方について。東京生まれの私は、明治神宮のパワースポットとして大ブームになった「清正の井戸」の流れから「きよまさこう」と読むものだと思い込んでいましたが……。
「本家の熊本では、“せいしょうこうさま”もしくは“せいしょこさま”とお呼びすることが多いですね。
覚林寺を建立されたのは、韓国の可観院日延上人とおっしゃる方です。清正公に縁の深い方で、清正公が亡くなられた20年後、寛永8(1631)年に開創されたのがこのお寺。
清正公をお祀りしている神社仏閣は、日本全国でもかなりの数があると思いますが、うちもその1カ寺です。東京だけでも清正公をお祀りしているお寺はたくさんありまして、大田区の大本山 池上本門寺や、日本橋の浜町には、清正公寺というそのままの名前のお寺もあります」
清正公に所縁のある神社仏閣、そんなにたくさんあるんですね。
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「生まれは名古屋の方ですから、名古屋にもあります。神社の場合は違いますが、お寺で清正公をお祀りしている場合は、日蓮宗の寺院がほとんどだと思います」
なぜ、仏教の宗派が関係してくるのでしょうか?
「清正公のお母さまが、法華経の熱心な信者だったからと言われています。お寺もたくさん建立されていらっしゃるし、熊本藩50万石の大名ですから、南無妙法蓮華経と唱えなさい、とおっしゃったら、皆さん信仰しますよね。そういう意味では、法華経を広めた方とも言えると思います」
なるほど、そういった由来で日蓮宗の寺院が多いんですね。歴史的な偉人をお祀りするお寺はたくさんありますが、そういった視点で考えたことがなかったので、新鮮な気づきです。
では次に、清正公に所縁のあるものなどが境内にあるかも聞いてみましょう。
「ここは、日延上人が清正公のご恩に報いるためにお祀りしたお寺なので、清正公ご自身がこの場所にいらっしゃったわけではありません。たまに、インターネットなどを見ると屋敷跡、みたいに書かれていることもありますが、実はそうではないのです」
笑いながらも、衝撃的な事実を教えてくれたご住職。では、寺院を建立するほど清正公への恩義を感じていた日延上人とは、どのような人物だったのでしょうか。
「申し上げた通り、日延上人は韓国の方です。清正公は豊臣秀吉の家臣でもありましたから、2度、朝鮮出兵をしています(註・1592年の文禄の役、及び、1598年の慶弔の役)。撤兵時、当時の朝鮮王国の王族のお子さまをお連れになり、熊本で大切に育てられました。お育てになる過程で法華信仰も伝わったんでしょう。そのお子さまは清正公の信仰心を受け継ぎ、博多の日蓮宗のお寺で得度してお坊さんになりました。
その後、日蓮聖人が誕生した日蓮宗の大本山、誕生寺(千葉県鴨川市小湊)の18代目の住職になられたんです」
なぜ韓国生まれの日延上人が覚林寺を開創されたのか疑問でしたが、歴史を紐解くと、秀吉の朝鮮出兵まで遡るとは、正直、想像以上の驚きでした。
そして、日蓮宗の大本山である誕生寺の住職になられたというのも驚き。「優秀な方だったんでしょうね」と、ご住職。
「江戸時代末期、幕府との交渉事などがあれば、日延上人も千葉県からいらっしゃるわけです。今なら車でサッと来れるけど、当時は徒歩です。江戸に来たら何日、何カ月と滞在する必要がある。その時の滞在場所として江戸に布教所をいくつか作られた、と言われています。
晩年、白金村であった当地を幕府より下賜された日延上人が、清正公への恩義も含め、この地に覚林寺を開創されたのがはじまりです」
港区文化財の山門と清正公堂、そして思いもよらない情報まで!
江戸末期に開創された覚林寺。歴史ある境内で、いちばん古くからあるものを教えていただきました。
「山門も清正公堂も、どちらも江戸末期のもので古くからありますが、山門の方が少しだけ古いそうです。港区の文化財にも指定されています。
清正公堂も江戸末期につくられていて、こちらも港区の文化財。参拝に来られた方から、清正公堂の彫刻も素晴らしいと言ってもらうこともあります」
「山門も清正公堂も、どちらも江戸末期に作られていますが、実は当時の山門やお堂は、大火事で焼失してしまいました。江戸時代、“大火”と呼ばれるものはいくつかありますが、ここが焼失した火事は、弘化2(1845)年の火事。火元は青山らしいです」
青山から白金まで延焼って、かなりの広範囲では!?
「風に煽られて、どんどん広がったらしいです。実は、その火事で亡くなった方の供養塔が、山門の横にあります」
供養塔の側面には弘化2年正月24日と日付が刻まれている。
それは教えていただかないと分からない情報! やっぱり、直接お話をうかがうと予想だにしなかった情報を教えてもらえます。そしてご住職、畳みかけるように知られざる事実を教えてくれました。
「ちなみに、安藤(歌川)広重による『東都司馬八景』という浮世絵がありますが、その一つ『白銀晴嵐』という絵に焼失する前の覚林寺の姿が “清正公祠”として描かれています。そして、その絵には、お寺の前に茶屋が描かれていますが、古典落語の『井戸の茶碗』に出てくる茶屋はここだと聞いています」
「東都司馬八景」に当時の覚林寺が描かれている、落語「井戸の茶碗」にも登場するなど、知られざる歴史に「へぇ~」「そうなんですか!」と、感嘆の声が止まりません! 覚林寺、江戸時代から認知度の高い場所だった、ということですよね。
「火事で焼けてしまう前の様子が分かるので、東都司馬八景の絵は貴重です。
あと、測量で高さを図るための基準になった『几号水準点』も、山門を出たすぐのところにあります。あとで案内しますね」
清正公にゆかりのあるお寺だからお話を聞いてみたい、と思って今回の取材をお願いしましたが、思わぬ港区の歴史にも出会うことができました。
歴史的価値が高いものがさまざまある覚林寺ですが、境内でご住職がいちばん好きな場所や時間も聞いてみました。
「覚林寺は、道路側が東、清正公堂側が西側なので、清正公堂の正面に朝日が当たります。お堂を背にして夕陽が見える。どうしても最近はマンションが多いので、日が射す時間も限られてしまいますが、やっぱり朝日が当たる時間は綺麗ですよね」
朝、通勤前や散歩の途中でお参りされる方もいらっしゃるとか。確かに勝負の神様でもある清正公さまは、大きな商談や、ここぞ! という朝に立ち寄るには、最適の場所です。
興味深いお話をたくさん教えていただき、失礼するタイミングで、「供養塔などはこちらですよ」と案内してくださいました。
山門を出て、桜田通り沿いにある「几号水準点」について教えてもらっていると、興味深そうにのぞき込まれている近隣住民の方が……。
「測量の高さの基準点なんですって」と少しお話していると、「清正公と書いてありますが、加藤清正公と関わりがあるんですか?」とひと言。なんとお声を掛けてくれたのは、偶然、熊本ご出身の方とのこと!
港区に居ながらにして、今でも清正公さまは熊本の方に慕われているんだなぁ、と実感できた1日でした(やっぱり、呼び方は“せいしょうこうさん”でした!)。
【最正山 清正公 覚林寺】
住所:東京都港区白金台1-1-47
時間:9:00~17:00
アクセス:都営地下鉄三田線・東京メトロ南北線「白金高輪駅」より徒歩約10分、都営地下鉄三田線・東京メトロ南北線「白金台駅」より徒歩約10分