都心にひっそり佇む歴史的大事件の跡! 浅野内匠頭終焉之地
付近にビルやカフェ、コンビニエンスストアが立ち並ぶ、新橋地区の一角。ひっそりと佇みながらも、存在感を放つ史蹟の石碑に不思議と目を惹かれます。表示された文字は、「浅野内匠頭終焉之地」。
言わずと知れた『忠臣蔵』において、重要人物の1人である浅野内匠頭。果たして、彼は何者で、どうして切腹に追いやられてしまったのか……。簡単に振り返ってみましょう。
浅野内匠頭って誰?
浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ・ながのり)は、江戸時代の赤穂藩5万3500石の第3代藩主です。
元禄14年、勅使饗応役を命ぜられた浅野内匠頭は、饗応指南役であった吉良上野介義央(きらこうずけのすけ・よしなか)を、江戸城中の松廊下で突然斬り付けるという事件を起こしました。後に有名な「赤穂浪士討ち入り事件」の引き金となる、「松の廊下の刃傷事件」です。
この事件は時の5代将軍・徳川綱吉の怒りに触れ、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家は断絶を命じられました。大名が即日切腹というのは、当時では異例の事態でした。即座に勅使饗応役を罷免された浅野内匠頭は、かつてこの地にあった奥州一之関藩(岩手県)・田村右京太夫の上屋敷に預けられ、夜のうちに切腹したとされます。
石碑の傍らには、浅野内匠頭が切腹する際、遺したとされる辞世の句も掲示されています。「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」――風に誘われて散る桜の花よりも儚く散っていく私は、この世の名残をどう留めればよいのだろうか、という意味が込められています。
風に舞い散る桜の花びらにかけ、儚さと無念さがよく表れた歌です。
浅野内匠頭が年長の吉良上野介に斬りかかった理由には諸説あり、真相はいまだ明らかにされていません。指南役である吉良上野介へ付け届ける金額が少なかったため不評を買った、浅野内匠頭には持病があり、事件の直前に薬を処方されていた……などさまざまな研究が続けられています。
しかし、「喧嘩両成敗」が当たり前だった当時の武家社会で、ただ逃げ回っただけの吉良上野介には、お咎めなしという采配が下ったのでした。
浅野家の家臣たちはいったんはお家復興を目指すのですが、それが叶わぬと知り、大石内蔵助以下四十七人の義士たちは、吉良家の討ち入りへ駆り立てられたと伝えられます。
【浅野内匠頭終焉の地】
住所:東京都港区新橋4-31付近
浅野内匠頭が眠る泉岳寺
時が経ち、浅野内匠頭は、家臣たちとともに、泉岳寺に祀られることになります。
泉岳寺の敷地内には、義士の貴重な遺品などを納めた「赤穂義士記念館」もあり、お参りにくるファンも多数。毎年2回、4月と12月には「赤穂義士祭」が開催されるほど、その名が知られています。
享年35歳と、若い命を散らした浅野内匠頭でしたが、その死は家臣たちを動かし、時を超え、現代にも名を轟かすようになりました。
人形浄瑠璃の演目として、広く庶民に知れ渡るようになった「忠臣蔵」。ドラマや映画の題材として、しばしば見受けられます。
2024年2月公開の映画『身代わり忠臣蔵』では、俳優のムロツヨシさんが吉良上野介と彼にそっくりな弟・吉良孝証の一人二役を演じて話題になりました。
新橋を通る際は、ぜひ若き藩主がこの世に遺した証をご覧になってみてください。
【泉岳寺】
住所:東京都港区高輪2-11-1
泉岳寺開閉門時間: 7:00~16:00(通年)
赤穂義士記念館拝観時間: 9:00~15:30(通年)
※15:30までにご入館ください