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【伊皿子貝塚】田町には縄文時代に巨大な水産加工工場があった【港区の貝塚】

2024年1月11日

港区内で発見されている8か所の貝塚

現在は埋め立てが進み海岸線は東へとずれていってしまっていますが、もともと港区は”港”の名の通り東京湾に面した海の町。縄文時代の人びとは、今よりもっと海に寄り添って生活をしていました。

港区内では8か所貝塚が見つかっています。

・青山墓地内貝塚
・元麻布二丁目貝塚
・本村町貝塚
・西久保八幡貝塚
・紅葉館内貝塚
・丸山貝塚
・伊皿子貝塚
・旧海軍墓地貝塚

このうち、発掘調査がきちんと行われたのは

・本村町貝塚
・西久保八幡貝塚
・丸山貝塚
・伊皿子貝塚

の4か所。今回はこれらの貝塚の調査結果から判明している、縄文時代の港区民(?)の生活を紹介します。

そもそも貝塚って何?

貝塚とは、先史時代の人びとが食料として採集した貝殻や動物の骨を捨てていた場所のことです。

アルゼンチンのサンタクルス州にある貝塚。(Wikipedia貝塚より)

この説明だけですと、”ゴミ捨て場の遺跡”にすぎませんが、貝塚にはもうひとつ、考古学的に重要な意義があります。

それは、動物の骨を保存しやすいという点です。これは、こと日本において大きなメリットとなっています。

日本は雨量が多いため、世界と比較しても土壌の微生物が非常に活発に活動しています。土壌内の微生物が排出する二酸化炭素の量も多く、土が酸性に偏りやすいという特徴がある国土です。この酸性の土壌というのが曲者でして、生物の骨や遺体を長時間かけて溶かしてしまいます。そのため、日本という土地は外国と比べると、化石が残りにくいとされているのです。

ですが、先史時代の人びとが貝殻や骨を固めて捨てていた貝塚では、自然に多量のカルシウムが周辺の土壌に溶け出します。カルシウムはアルカリ性ですので、酸性を中和します。捨てられた獣や魚、鳥の骨などが、比較的良好な状態で保存されているのです。

もちろんゴミ捨て場ですので、食べかす以外にも、割れた土器や、骨角器などが捨てられていることがあります。貝塚を調べれば先史時代の人びとの生活の様子をうかがい知ることができます。かつては、ただの古代人のゴミ捨て場だと考えられていましたが、中から人や犬が埋葬された形跡が見つかることもあり、近年ではただのゴミ捨て場ではなく、葬送の場として使われていた可能性も出てきているそうです。

縄文時代の水産加工工場

伊皿子貝塚は、旧三井家邸宅敷地(現・NTTデータ三田ビル)で発見された、約4,000年前の貝塚です。縄文時代後期にあたります。

ビルを建築する前の1978年から1979年にかけ、本格的な発掘調査が行われました。その結果出土した貝の種類の多さや、貝層の厚さは日本有数であることが判明しました。近隣には縄文時代から、弥生時代にかけての大規模集落跡も発見されています。

伊皿子貝塚で見つかった貝の種類は82種類。ですが、貝塚の中で自然繁殖したものや、たまたま紛れ込んだと思われるものもあり、実際に食用とされていたのは10種程度と考えられているそうです。

全体の約50%を占めるのはハイガイ。

朝鮮半島や中国では、現代も、食用として人気のハイガイ

今も比較的暖かい海の泥の中に生息しています。砂浜を歩くと貝殻はよく見かけますが、現在東京湾の海岸で見かける貝殻は、化石とも呼べる古いものばかり。湾内に生息はしていないと考えられています。

日本での生息エリアはかなり限られており、国内では長崎県から熊本県にかけての有明海で採取されるそうです。このことから、縄文時代の東京湾の水温は現在より高かったと推察されます。

さて、一般的な貝塚では食した後に廃棄した貝殻以外にも、前述の通り土器のかけらや魚の骨といった日常生活で出た食べかすやその他廃棄物が貝層に混ざります。

ですが、伊皿子貝塚の発掘調査ではこうした貝殻以外の出土品が極端に少なく、代わりに焼けた貝殻の層と炭化物が交互に堆積している箇所が多く発見されました。

このことから伊皿子貝塚は、貝殻の上で火を焚き貝を茹で、その後干し貝などへ加工を行っていた縄文時代の水産加工工場跡ではないかとみられています。

実は、こうした貝の加工場と思われる縄文遺跡は日本全国で見つかっています。縄文人は日保ちがする干し貝を、山間部で暮らす人との交換財や遠方の縄文人グループとの貿易の対価として利用していた形跡があるのです。

ホタテの貝柱の干物。貝の干物は現在も様々な形で食される

伊皿子貝塚は、国内最大級の貝層であることから、とても周辺で暮らしていた人たちだけで生産した干し貝を食べつくせたと思えません。もしかしたら港区の縄文人は、交易を大々的に行っていたのかもしれませんね。

干しアワビは古代から現代まで、日本を代表する海産物として中国大陸へ輸出されている

港区では縄文時代から海とともに人が暮らしていた

もちろん区内には、縄文人が普通に東京湾で取れた海産物を食べて暮らしていたことを証明する貝塚も発見されています。

昭和58(1983)年、発掘調査が行われた西久保八幡貝塚は、伊皿子貝塚より少しあとの時代のもの。

規模も伊皿子貝塚よりはるかに小さく、発見された貝の種類は28種類しかありません。

ですがこちらの貝塚からは、貝殻以外にも多様な魚や動物の骨、土器や骨角器が出土しました。

間違いなく、縄文人の居住地から出たごみを日常的に捨てられていた場所とみられます。

このように縄文時代の港区民は、普段食べるものを捨てる貝塚と、産業廃棄物とでもいうべき貝殻をすてる貝塚を使い分けていたようです。

なお、出土した伊皿子貝塚の貝層は、港区立郷土歴史館に展示されています。興味がある人は、是非、歴史館を訪れてみてください!

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