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増上寺が徳川家の菩提寺となった理由とは? 家康の信仰と大本山の役割を解説

2026年1月16日

港区を代表する寺社として抜群の知名度を誇り、日本のみならず世界中から旅行者が訪れる増上寺。
東京タワーのふもとに広がる境内には、JR浜松町駅・都営大江戸線/浅草線大門駅から歩く途中に、大門や三解脱門(※2026年時点では保存修理工事中)が立っています。

 

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港区・芝にある増上寺がなぜ徳川家の菩提寺になったのか、その理由を家康の幼少期から紐解きます。また、浄土宗の大本山としての役割や、一般の寺院との違いについても分かりやすく解説すべく、大本山 増上寺 参拝部 参拝課の横川幸俊さんに教えてもらいました!

江戸時代から令和まで、増上寺はお坊さんの最終修行の場!

増上寺が他と違う大きな理由のひとつが、「僧侶育成の中心地」ということです。

ちなみに増上寺の山号は三縁山。「三縁山 広度院 増上寺」と称します。でも、「大本山 増上寺」と称されることも。これも、一般的なお寺との違いに関係があるのでしょうか?

「そうですね。大きな違いは、増上寺は浄土宗の『大本山』ということです」

大本山とは、特別な地位を持つ寺院を指す言葉で、いわゆる仏教寺院の格付けのようなもの。
江戸時代には、幕府が仏教寺院を統制するための「本末制度」が敷かれていました。宗派のトップである「総本山」、そして総本山に次ぐ「大本山」は、所属する寺院をまとめる役割を持つお寺です。

 

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浄土宗総本山 知恩院(@chion_in)がシェアした投稿

「浄土宗の総本山は京都府の知恩院さんです。
大本山は全国に7カ所あり、関東には、増上寺と神奈川県鎌倉市の光明寺さんの2カ寺。多くのお寺さんを統括する意味合いの立場ですが、現在ではほかのお寺さんをまとめ上げる、ということはあまりないですね」

「もうひとつ、一般的な寺院との大きな違いがあります。それは、浄土宗の僧侶育成機関であること。こちらは、江戸時代から現在まで変わっていません」と、横川さん。

「江戸時代に『関東十八檀林』というものが置かれました。檀林とは、僧侶の養成機関。つまり、関東に18カ所の養成機関を設けましょうね、ということです。増上寺もそのうちの1つに選ばれており、今も変わらず僧侶の養成を行っています」

今でも毎年12月から3週間、増上寺に寝泊まりをして修行をされる方がいるとのこと。

「浄土宗の僧侶になるための最後の修行を『加行(けぎょう)』と言うのですが、これを終えないと、僧侶の資格を得られないんです。
こういった部分は、一般的なお寺さんと大きく違うところですね」

なぜ増上寺は「本堂」ではなく「大殿」なのか?

増上寺の境内にある、ひときわ大きな大殿にいらっしゃるご本尊は、阿弥陀如来像。お座りになっているので、「阿弥陀如来坐像」です。

大本山 増上寺のご本尊は阿弥陀如来坐像。 ※画像提供:増上寺

「増上寺はたびたび火事に見舞われています。明治42(1909)年にも大火があり、大殿とご本尊を焼失してしまいました。そこで、総本山である知恩院さんより寄贈されたのが現在のご本尊です。
複数の木材を組み合わせて制作する寄木造で、東京都の指定文化財にもなっています」

 

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JR浜松町駅から増上寺に向かう際、大門、三解脱門を抜け、その一直線上にそびえる堂々たる大殿で迎えてくれる、柔和な表情の阿弥陀如来坐像。大殿では毎日3回の勤行が行われており、タイミングが合えば一緒に手を合わせることも可能です。

ところで、一般的にはご本尊が安置される建物を「本堂」と呼びますが、増上寺ではなぜ「大殿」と呼ぶのでしょうか?

階段を上った先の大殿にあるのが本堂です

「実は大殿は、地上3階・地下2階の建物。大殿の2階部分が『本堂』なんです。
いつから『大殿』と呼ばれているかは定かではないのですが、本堂だけでなく、さまざまな役割を持つ場所が付随する建物なので、『大殿』と呼ばれるようになったんでしょうね」

本堂以外にどのような役割の場所があるか聞いてみると、たとえば3階には、修行僧の方々が修行をするための部屋があるそう。地下には増上寺の宝物殿もありますよ。

徳川家の菩提寺・増上寺――家康の浄土宗への厚い信仰は、辛い幼少期の日々きっかけ?

徳川家康は浄土宗を厚く信仰しており、浄土宗にとっても多大な庇護を与えた将軍。

ではなぜ、徳川家康公はそこまで浄土宗を信仰していたのでしょうか? 横川さんは「家康公の人生を辿ると、その理由が想像できる」と言います。

『徳川家康像』所蔵:京都大学総合博物館 The Kyoto University Museum, Kyoto University

徳川家康は、三河(現在の愛知県)にて、松平広忠の長男として生まれました。8歳の時に人質として今川家に送られ、桶狭間の戦いで今川義元が敗れるまでおよそ10年にわたり、いつ命を取られるか分からない「人質」としての日々を過ごしています。

「幼少期・青年期の家康公は、本当に辛く苦しい日々だった。そんな時に支えになったのが、阿弥陀様の信仰だったのだと思います。せめて亡くなった後は苦しみのない世界に行きたい、という想いが人一倍強かったんだろうと想像できますよね」

浄土宗は「南無阿弥陀仏」と唱えることで、亡くなった後は悩みや苦しみのない極楽浄土に導いてもらえる、という教え。
子どもの頃に親元から離され、実の両親も早くに亡くしている家康は、極楽では大切な人たちと穏やかに過ごしたいと熱心な浄土宗の信徒となったと考えると、すんなりと納得できる話です。

「少し脱線しますが、家康公が戦に出るときの旗印に『厭離穢土(えんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)』と書かれているものがあります。
『(戦で)亡くなったら極楽に行くんだ』という意味で使われていたと言われていますが、私は『亡くなった後だけでなく、今の世も皆の悩み・苦しみがない世界に自分がするんだ』という家康公の気持ちもあったのではないかな、と思いますね」

辛い時代を過ごした徳川家康。誰よりも強く天下泰平を願い、実現させた人なんですね。

平和と安寧をもたらすため家康が集めた経典が、ユネスコ「世界の記憶」に登録

平和な世を強く願った家康公ですが、彼が残したのは目に見える平和だけではありません。その願いが形となって今に伝わる、貴重な遺産があります。

それが、先日ユネスコ「世界の記憶」にも登録された12,000点に及ぶ貴重な仏教聖典(仏典)「三大蔵」です。

三大蔵「宋版」 ※画像提供:増上寺

▼三大蔵についてはこちらの記事でも解説しています
増上寺の「三大蔵」がユネスコ「世界の記憶」に登録! 徳川家の菩提寺に眠る、歴史的資料群

三大蔵が、歴史的に重要な文書などを人類の遺産として保護・共有するためのユネスコによる取り組み「世界の記憶」に登録されたのは、2025年4月のこと。

増上寺会館に飾られている「世界の記憶」登録証

増上寺が所蔵する「三大蔵」は、木版印刷された膨大な仏典。増上寺宝物殿でも展示されていますが、実物を見ると、12~13世紀ごろに制作された版木を使用したとは思えないほどの美しさです。

「私も初めて目にした時は、本当に何百年も前のものなのかな、と目を疑うくらい綺麗だと感じました。もちろん古さはありますが、100年も経っていないのでは? と感じるほどでしたね」

三大蔵「元版」 画像提供:増上寺

増上寺のなかでも、家康は、当時日本にもたらされていた大蔵経(仏教聖典)の中から、欠損なく状態の良いものを調べ尽くしたうえで、収集したのではないか、と想像しているそう。もしかしたら家康は、この世の安寧を求め、増上寺で日本版の大蔵経を作ろうとしていたのかもしれません。

「それぞれに考え方があると思いますが、私としてはデジタルでもご覧いただけますが、やはり、ぜひ増上寺宝物殿で公開している『本物』を見ていただきたいと考えています。
実物をご覧いただくと、その状態の良さだけでなく、当時の印刷技術の高さなど、感じられるものがあると思いますね」

三大蔵「高麗版」 ※画像提供:浄土宗・増上寺

横川さんのおっしゃる通り、宝物殿に展示されている実物を目にすると、本当に「どうしたらこんなに均等に木版印刷ができるんだろう?」と驚くほどです。

増上寺が所蔵する「宋版」「元版」「高麗版」の三大蔵。保存状態も良く、クオリティが高いのは高麗版と言われていますが、個人的には、しっかりした紙に少し細い書体で美しく文字が並んでいる元版推しです。

増上寺が徳川家の菩提寺となった理由は?

さて、ではなぜ増上寺は徳川家の菩提寺となったのでしょうか。三河での松平家・徳川将軍家の菩提寺は、大樹寺という浄土宗のお寺とのことですが……。

「家康公は豊臣秀吉による国替えの命で江戸に来られるのですが、菩提寺である大樹寺さんから離れてしまった。近くに菩提寺がないことが心もとなく、大樹寺のご住職に相談したところ、紹介されたのが増上寺だったということです」

当時の増上寺は、現在の麹町・紀尾井町あたりにありました。しかし江戸城の再築工事、その後の整備事業の関係もあり、慶長3(1598)年に現在の芝に移されています。

斎藤長秋 編 ほか『江戸名所図会』三,博文館,1893.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/994932 (参照 2025-12-24)

「当時の芝周辺は緑に囲まれ、JR浜松町駅から先は海の本当に何もない場所(笑)。江戸城から遠すぎず、自然に囲まれた場所である芝エリアは、将軍様の墓所を守る場所に最適、ということで選ばれたようですね」

増上寺が徳川家の菩提寺となった理由、ちょっと盛られた文献もある?

「増上寺が徳川家の菩提寺となった理由はお話した通りなのですが、実は少しドラマティックなストーリーとして残されている文献もあるんですよ」と笑いながら教えてくれた横川さん。

「家康公が家臣と共に江戸城に入られるとき、馬でパカパカ移動していたらある場所で馬が動かなくなってしまった。そこには一人の住職がぽつんと立っており、名を聞くと浄土宗 増上寺のご住職だったので、ご縁を感じた家康公が馬から降りてお話をされたんです。家康公は『明日は一緒に朝ごはんを食べたい』とおっしゃって、その席でご縁を結ばれたという話もあります」

たしかに、そんなきっかけで菩提寺とのご縁を結ばれたのであれば、運命的なものを感じます。でも、増上寺は三河の大樹寺のご住職にご紹介されたはず。

「家康公は、増上寺のご住職をご紹介されているので、実際とは少し違います。
でも、運命的なご縁で菩提寺を選ばれたんですよ、と仏縁を感じさせるストーリーを残したくなる気持ちも分かりますよね(笑)」

徳川家康の墓所は日光東照宮。上野の寛永寺にも徳川家墓所がある理由とは?

増上寺は徳川家の菩提寺として徳川家霊廟がありますが、実は台東区上野の寛永寺にも徳川家霊廟があります。そして現在家康が眠るのは、栃木県の日光東照宮。
徳川家の墓所は、なぜ複数あるのでしょうか?

清親 画『日本名勝図会』,松木平吉,明治29-30. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2542755 (参照 2025-12-24)

「家康公は遺言で、法要(葬儀)は増上寺で行いその後は日光に神として祀るように、と残されました。墓所が日光にあるのはご遺言に倣ったからですね。
家康公をとても慕っていた3代将軍家光公の墓所も、日光東照宮のお隣にある輪王寺さんです」

家光は日光東照宮の大改装を行ったり、生涯で何度も日光に赴いたり、今で言う相当な「おじいちゃん子」。家康の近くに埋葬してほしい、というのもよく分かります。
そして、最後の将軍慶喜を除く12人の徳川将軍が眠っているのは、増上寺もしくは寛永寺。

「書物などが残っているわけではないので、寛永寺も徳川家の菩提寺である明確な理由は分からない、というのが本当のところです。寛永寺さんは宗派も違いますしね。
想像の話になってしまうのですが、当時の寛永寺さんのご住職であった天海上人は大きな権力をお持ちで、徳川家の方々も大変信頼されていた方でした。政治を含め、さまざまな助言をされるほど。そういった関係性から、墓所を守ることをお任せしたのかもしれないですね」

加えて、時の将軍の「尊敬している先代と同じ墓所に埋葬してほしい」などの意向もあり、現在は増上寺と寛永寺、それぞれで6名の徳川将軍の墓所をお守りしているそう。
将軍のお墓を守るということは、お寺にとっても相当なステータス。2つのお寺で平等に埋葬されるなんて、なんとも絶妙のパワーバランスを保っていたんですね。

徳川家墓所の扉には三つ葉葵の御紋も

「実は増上寺でも、『家康さんのお墓はどこですか?』と聞かれることがあります。家康公のお葬式を行ったのは増上寺なので、そう思われるのも仕方がないですよね(笑)」と、横川さん。

歴史を知ることで、今も増上寺が持つ役割、そして一般的な寺院との違いが見えてきます。そして、江戸時代から続くストーリーを知ることで、ふと浮かびあがる「素朴な疑問」を解決させることも可能。

ただし、増上寺にはまだまだ見どころやエピソードがたくさんあります。

次回は、なぜ徳川家康は増上寺の移転先にこの「芝」の地を選んだのか。そして、巷で語られる「江戸城の裏鬼門」という都市伝説の真相など、さらに深く増上寺の核心に迫ります。

大本山 増上寺
住所:東京都港区芝公園4-7-35
アクセス:JR・東京モノレール「浜松町駅」より徒歩10分、都営地下鉄三田線「御成門駅」「芝公園」駅より徒歩3分、都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門駅」より徒歩5分、都営地下鉄大江戸線「赤羽橋駅」より徒歩7分、東京メトロ日比谷線「神谷町駅」より徒歩10分

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