【中沢乳業】港区内に牧場があった!? 老舗乳製品メーカーに聞いた日本酪農のあけぼの
JR新橋駅周辺には、かつて牧場があったらしい。
いつものように「いざまち」用にネタ探しをしていたところ、そのような噂を見つけました。
新橋に乳牛を飼えるほど広い土地ってあったの? そもそも乳牛って寒いところ以外で育つの?
数多くの疑問が浮かんできましたので、その真実を知るべく、明治初頭に、実際に新橋周辺で牧場を経営しており、現在は生クリームを中心とした乳製品の製造・販売事業を営んでいらっしゃる『中沢乳業』さんへお話を伺いに行ってきました!
明治初頭に始まった日本の酪農
今回お話をして下さったのは中沢グループホールディングス株式会社の専務取締役・中澤 勇一郎さんです。
中沢乳業グループは、現在、大田区の大森へ移転をされていますがそれまでは港区内で活動をされており、芝エリアの老舗企業の集まりでもある『芝百年会』にも参加されています。
「当社の創業は明治元(1868)年と言われているのですが、ハッキリとした資料は残っていません。ただ、明治元年ごろに新橋で酪農業を始めたという話は、親族間で伝わっていました」
と、中澤専務。場所としては、今の新橋駅より汐留駅寄りにあったらしいです。
が、平成30(2018)年に、創業150周年記念誌を制作する際に、改めて会社の歴史を掘り起こしてみたのだそう。以下は、中沢乳業グループさんが調査した結果から判明してきた、新橋にあった牧場についての記録です。
初代中澤惣次郎、大志を抱き上京する
新橋に牧場をつくったのは、中沢グループの創業者にあたる中澤惣次郎です。
惣次郎は幕末の天保8(1837)年に、現在の兵庫県神戸市の農家に生まれました。惣次郎の青年期にあたる嘉永6(1853)年、浦賀へ黒船が来航し、日本は天地をひっくり返したような大騒動となっています。
黒船来航により急変する時代の風を感じた若者たちが、数多く江戸へ集まりました。惣次郎もそのうちの一人でした。元治2(1865)年、神戸の家や畑をすべて売り払い、家族を連れ現在の港区南麻布天現寺あたりに居を構えます。
農家だった惣次郎の頭にあったのは、自然を活かした新事業を興したいという想いだったようです。色々と調べて回っている過程で惣次郎が見つけたのが、酪農という新農業でした。
文久3(1863)年ごろ、横浜の外国人居留地へやってきたオランダ商人のスネル兄弟が、搾乳所をつくり居留地の外国人相手に牛乳販売を行いました。これを見た前田留吉という人物は「外国人の体格がよいのは牛乳を飲んでいるからに違いない」と解釈。開国によりきっと日本人も牛乳を飲むようになるだろうと、スネル兄弟から搾乳法を教わり始めます。慶応2(1866)年、留吉は和牛6頭を飼って横浜山下町にて、搾乳と牛乳販売を開始しました。これが、日本初の牛乳搾取所です。
「どうやらこの前田留吉と、創業者の惣次郎さんは親交があったようなのです」
と、中澤専務。惣次郎は、酪農に光明を見出し、明治元(1868)年3月、現在のJR新橋駅から汐留寄りのあたり(烏森)に土地を取得し牧場経営を始めました。
それにしても、何故新橋なのでしょう。
「当時の江戸は、武家の土地が約60%、残り約20%ずつを町人と寺社で分け合って所有している状態だったそうです。ですが、幕末の動乱で江戸が戦場になると言われて庶民が逃げていたり、あるいは明治維新を迎え武士階級がなくなったりしましたので、江戸の約60%の土地が持ち主不在となり、土地が大量に余っていたようなんです」
さらに江戸幕府滅亡後、武士たちへの失業対策として、明治政府が積極的に畜産を推奨していました。都内で牛乳搾取事業を始めた人は我々の想像以上に多く、さほど不思議なことではなかったようなのです。
惣次郎の牧場にはそれら多くの牧場とは違う特徴がありました。それは、日本ではまだそれほど知られていなかったホルスタイン種をわざわざアメリカから輸入して、飼育したということです。この革新的な牧場が誕生したのは、江戸幕府が倒れ明治維新が起こる6か月前でした。
洋食ブームに救われた中澤牧場
こうして開業した中澤牧場でしたが、牛の乳を飲むという習慣は日本人には受け入れがたかったようで、苦しい時代が続きました。
「当時の牛乳は、牛乳の入った大きなブリキ缶を担いで、ジョウゴと長い柄杓を使い販売するという、量り売り形式だったようです」
“とにかく新鮮でおいしい牛乳を作って、消費者に乳製品の良さを分かってもらおう”という惣次郎の不断の努力と、西洋医学の普及により”牛乳は身体に良い”という認識が広がってきたため、庶民も徐々に牛乳を飲むようにはなりましたが、状況はなかなか改善しませんでした。
そんな惣次郎の事業の転機となったは、明治16(1883)年のある出来事でした。
この年、外務卿・井上馨を中心とした勢力により、千代田区内幸町に『鹿鳴館』と呼ばれる迎賓館が建てられました。
井上は、日本外交の喫緊の課題であった不平等条約、特に治外法権を撤廃するには日本が文明国であることを諸外国に喧伝する場が必要であると考えていました。そこで西洋式の立派な迎賓館を立てそこに要人を招待し、日本が文明国になったことを見せつけたのです。
完成した鹿鳴館では、接待のため西洋式の舞踏会が毎晩のように行われました。すると当然、西洋料理が供されることになり牛乳の需要が高まります。鹿鳴館の近くである新橋に牧場があり、質の高い牛乳を用意できた中澤牧場に白羽の矢が立ちました。
上流階級の人々が食した鹿鳴館の西洋料理は、やがて民間にも流れてきます。こうして日本に洋食ブームが起こりました。町に洋食店や洋菓子店が出きたことで、中澤牧場の牛乳は業務用として販路が広がりました。
「当時の記録を見ると、当社以外にも東京都内で酪農牧場を行っていた事業者は多くいたようです。ですが、明治期から乳製品製造を始めて、現在まで残っているのは当社だけです」
と中澤専務は語ってくださいました。
牛乳搾取事業者の地位を向上させた2代目・中澤惣次郎
ところが、ようやく牧場に光が差した明治23(1890)年、50代半ばという若さで惣次郎は亡くなってしまいました。惣次郎には子どもがいなかったため、親族から養子を迎えることとなりました。牧場を継いだのは、2代目の中澤惣次郎です。
2代目は、突然の承継でありながらも、熱意をもって牧場経営に向き合い、寝る間を惜しみ必死で働きました。事業継承時に大量にあった債務整理にも成功しています。乳業の社会的な存在意義と将来性を確信し、自らの仕事に対して強い使命感を持ったようです。
この時代になると東京から始まった乳牛の飼育も次第に全国に広まっていましたので、畜産団体を作ろうという社会的な動きも起こりました。若いながらも酪農に対し真摯に向き合う2代目惣次郎の献身的な働きぶりは、業界のなかでよく知られていました。明治25(1892)年、若干25歳にして2代目惣次郎は、搾乳組合常任議員に推薦され、公職へ就くこととなりました。
「2代目は、地元の名士として活躍していたようです。社内を調査したところ、当時の東京市長や皇室から晩餐会などに招待された手紙や、内閣総理大臣も務めた政治家・松方正義から畜産中央団体創立への協力を相談された手紙も出てきました」
その後も2代目惣次郎は、多くの公職に就き酪農業の発展に尽くしました。現在の港区区議会議員にもなっています。先述の畜産中央団体では、理事にも就任しました。
東京の都市化による牧場経営からの撤退
2代目惣次郎の働きにより中澤牧場は規模を拡大していきましたが、新橋まで鉄道が引かれたこともあり、牧場周辺は急激な市街化が進みました。人口が増えたことで、中澤牧場は乳牛の飼育に適さない環境となったのです。
そんな最中、不幸にも近隣で火災が発生。牧場にも類が及んだため、2代目惣次郎は、販売店のみ新橋に残したまま牧場は築地への移転を余儀なくされました。
移転後は、宮内省やホテル以外にも洋菓子店やアイスクリーム工場など、業務用を中心にさらに事業を拡大します。ところが、今度は牧場内で乳牛に疫病が蔓延。牛が全滅してしまいました。
改めて、清潔で安全、そしておいしい牛乳を作るには、乳牛が健康である必要を感じた2代目惣次郎は、明治29(1829)年、三代目の牧場を渋谷区広尾に作ります。この牧場は広さ約5,000坪もあり、東京都内にありながらのびのびと健康的に牛を育てられる全国有数の牧場だったそうです。
ですが、せっかく探し当てた理想の牧場も移転することとなります。明治33(1900)年、政府から乳牛の飼育に関する厳しい規定が出されました。乳製品の定義と規格だけではなく、処理物の検査や、搾乳場の検査まで細かく規定に盛り込まれたため、大部分の牛乳搾取業者は東京郊外への移転せざるをえなくなりました。2代目惣次郎も必死に牧場の移転先を探し、明治45(1912)年にようやく、目黒競馬場に隣接する広大な土地を手に入れています。
2代目惣次郎が広大な牧場を手に入れたのは、明治時代が終わり、大正時代に入るころでした。乳製品市場は目に見えて拡大していました。この需要増を追い風に、牧場経営は安定するかに思われましたが、逆に今度は需要増が仇となります。製菓部門を抱えているような大企業が、牛乳搾取業界へ進出してきたのです。これら大企業が参入したことにより、飲用牛乳は一般家庭にまで大量供給が可能となりましたが、裏では競争により、中小酪農家の淘汰が始まりました。
東京はすでに大都市へと変わり、酪農によい土地も次々宅地へ変わっていった時代です。2代目惣次郎は、家族や社員のためある決断をしました。昭和4(1929)年、目黒の中澤牧場を売却し、乳製品製造一本に事業を絞ったのです。
これは予想も入りますがと前置きのうえ、中澤専務は次のようなお話をしてくださいました
「人が増えたことによって、虫や臭いに対する周辺からの苦情も増えたのではないでしょうか。都会での牧場経営はやはり厳しいものがあると思います」
生クリーム製造業を主軸とした事業へ転換し現在へ
この頃洋菓子店の開業をする事業者は全国的に増加しており、それら新規開店を行う洋菓子店から、生クリームの引き合いを申し込まれることが増えていました。帝国ホテルを始め、上野精養軒や銀座の米津凮月堂(現・東京凮月堂)、コロンバンなどの今も残る有名店と取引が始まっていたため、2代目惣次郎は思い切った決断を行えたのでしょう。
「当社はそれまでも牧場経営と牛乳販売の傍ら、都内のレストランや菓子店の依頼に応じて業務用生クリームの納品は行なっており、大正12(1923)年には生乳から乳脂肪分を取り出す遠心分離式生クリーム製造機も導入していた記録があります。牧場経営撤退後しばらくは、業務用生クリーム製造販売に特化していたようなのですが、昭和39(1964)年の東京オリンピックあたりから、業務用生クリームの需要がさらに増えました。そこで、生クリームに関することならすべて取り扱う総合乳製品メーカーへ事業を変化させたようです」
と、中澤専務。ちなみに中沢乳業はこのころ、生クリーム需要の増加による対して原材料である生乳不足に対応するため、物性油脂と植物性油脂をブレンドした“コンパウンドクリーム”と呼ばれる新しいクリームを発明しています。このコンパウンドクリームの登場によって、日本人は生クリームの風味を、より身近で味わえるようになったのです。
現在の中澤グループは、業務用生クリームのトップブランドとして確固たる地位を築き上げています。とはいえ、公式e-shopも充実しており、スーパーでの取り扱いもありますので、我々一般ユーザーも簡単に商品を購入することができます。
実は取材を申し込んだ際「そんなに私からはお話しできることはないかもよ」と、中澤専務は謙遜されていらっしゃいました。ですが当日うかがうと、次々と貴重な資料が出てきて驚きました。
「当社の歴史について、こうしてお話しできるようになったのは社史をまとめた後の事なんです。実は、2代目が養子であったことも私は知らなかったんですよ。親族に昔の話ばかりする者はいました。当時の私は、親戚の集まりの度に同じ話を聞かされるので“また始まったよ”くらいの感じで聞き流していましたね。この方の話が、社史制作のきっかけにつながったのですから面白いものです。元常務に文章を書くのが好きな方もいらっしゃいましたので社史を作ってみようとなりました。色々な方にお話を聞いてまとめていきましたが、150年分となると大変でしたよ」
今回記事に起こさせていただいた新橋の牧場の記録は、中澤専務を筆頭とする中沢グループの社史編纂チームが、専門家の方々や、OBのご協力を得ながら調べてくれた膨大な記録のほんの一部。
「社史制作会社さんと打ち合わせを行ったところ、通常は150年分の社史を一気に出そうとはならないそうなのです。30年くらいを一区切りにして一冊つくるらしい。制作会社さんは驚いていらっしゃいました」
社史を拝見させていただいたのですが、制作会社さんが苦笑されるのも納得の大ボリュームで、これらをまとめたことに頭が下がります。この調査への熱量があるなら、まだ判明していない創業時の牧場の位置の特定など、追加調査にも期待がもてる!?
「私はこの社史の編集で疲れきったので、今はいいです」
と、中澤専務は頭をかかれました。
新橋に牧場があったという噂を確かめるべく調査を始めたところ、150年以上も続く老舗企業にお話をうかがうこととなり、日本の酪農が都心部から始まったという意外な事実に行きついた今回の取材。
「ひとえに当社が150年も続いてきたのは、お客様があってこそです。当社の乳製品を納めさせていただいた先で修業された職人の方々が全国へその技術と味を広げて下さったことで、当社もまた事業を拡大してまいりました。業務用生クリームに特化してきた当社ですが販路を広げて行くために、これからは一般認知度の向上にも努めていこうと考えています」
と、中澤専務は次なる150年に向けての抱負も語ってくださいました。
【中沢乳業株式会社】
住所:東京都大田区大森本町1-6-1 大森パークビル6階